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ショートショート うみのねこ(#ウミネコ文庫応募)

 こい緑の葉っぱにまぎれて、山猫は息をひそめていました。かちゃかちゃと何か固いものがぶつかる音。どすどすと不用心にひびく足音。鼻を刺すにおい。そしてなにより、ひっきりなしにやまないあの声。まちがいなく人間です。二足歩行の、あの無遠慮で不恰好な生き物は、山猫を食べたりこそはしませんでしたが、山猫の姿を見て奇声をあげたり何かぴかぴか光る板状のものを向けてきたりするので、山猫は彼らが嫌いなのでした。

「山猫、いるかな」
「いてほしいね。せっかく来たんだから」
二人連れの人間でした。声からすると、まだ年若いメスのようです。隠れて正解だったと山猫は思いました。人間の、中でも若いメスはとびきりうるさいことを、よく知っていたのでした。

「昨日さあ、海岸の方で、ウミネコを見たよ」
「へえ。この辺じゃあ、珍しいね」
「迷いこんだのかも」
「迷いこんだのかもね」

 山猫にはちっとも気がつかないまま、人間は相変わらず声をあげながら通りすぎていきました。山猫がそろりそろりと茂みから出てきます。尖った三角の両の耳がぴんと立っていました。
「『うみねこ』?」
 海にもねこがいるのか。山猫は、二人の人間の話をちゃんと聞いていたのでした。それもそうか。と納得します。山に僕みたいな山猫がいるんだから、海には海の猫がいるに違いありません。
「迷ってるのか」
これもちゃんと聞いていました。『うみねこ』が『海岸の方で』『迷っ』ている。自分が子猫の時に近くの人間の街に迷い込んだ時のことを思い出しました。今でも思い出すだけで涙がでます。お母さん猫が見つけてくれるまで、心細くてにゃあにゃあ泣いていたっけ。うみねこもきっと心細いに違いありません。

「ひとつ、仲間の猫として、うみねこをなぐさめてやろう」
山猫は思いました。すっかり大人になった山猫は森の中のすみずみまで知っていましたし、うみねこのとなりにちょこんと座って、尻尾をからませてやるくらいはできると思ったのです。

 地面に鼻をくっつけました。うみねこは、きっと、人間たちがやってきた方にいるに違いありません。ヒゲをぴんと立てて、今度は風のにおいをかぎました。ほんのり、潮のかおりがするほうが海です。
「にゃあ」
 景気づけにひと声ないて、とととと、と人間たちの向かった方とは逆の方向に走っていきました。

「おうい。山猫。どこへ行く?」
カラスがひと声鳴きました。大きな声で、よく目立ちます。
「うみねこに、会いに行くんだ!」
山猫も、まけないくらい大きな声で言いました。
「うみねこに?」
『なんだってうみねこなんかに』とカラスは言いかけましたが、すぐにやめました。山猫が機嫌をそこねて、とびかかられでもしたら面倒だからです。
「君はうみねこを知っているのかい?」
山猫が言いました。苦笑いしながらカラスが答えます。
「そりゃあね」
「僕は知らないんだ。うみねこの好物は、なんだい?」
カラスが驚いて、「カア」と声をあげそうになりました。山猫はうみねこを本当に知らないようなのです。
「魚じゃないのかい」
吹き出しそうになりながらカラスが答えます。
「やっぱりそうか! 猫だものね!」
嬉しそうに山猫がうなずくので、おかしくてたまらなくなったカラスは「カア」とないて、どこかに飛んでいってしまいました。

 とととと。山猫が獣道を走ります。足あとの上から、ちょんちょん、と水のしずくがたれていました。山猫が川で小魚をとったのです。うみねこへのお土産でした。泣いていても好物があれば大喜びするに違いありません。どんな毛並みなんだろう。山猫は想像します。僕と同じ茶色のまだらだろうか。カラスみたいな真っ黒だろうか。もしかして真っ白かも。ひょっとしたら、海みたいに真っ青かもしれない。だって、海の猫なんだもの。

 山猫のひげが風になびいて先っぽがくるんとまるまりました。間違いのない潮風でした。もうすぐ、海だ。山猫は思います。遠いむかしに、お母さん猫と一緒に見に来たことがあるのです。青くて、舐めるとしょっぱくて、毛並みに触るとべたべたになるへんてこな水が、目の前いっぱいに広がっている。それが、海でした。

 にゃあにゃあ。
 聞こえてきた声に山猫の耳がまたぴんと立ちました。きっとうみねこが泣いているに違いありません。とととととと。急ぎ足。丘を登って低い草原を抜ると風があたりました。海です。

「うみねこ! 山から仲間の猫がきたよ! さみしくないよ!」
山猫が大きな声で言いました。誰も答えません。近くに、白と灰色の鳥が山猫を見ながら飛んでいました。
「うみねこ! 山猫が来たよ!」
「山から、なに?」
目の前にひょっこり、真っ白な毛並みの猫が現れました。山猫はびっくりして毛が逆立ちました。
「君、『うみねこ』?」
言われた白い猫もびっくりして毛がぶわっと逆立ちました。
「『ウミネコ』だなんて! 私は、ただの猫」
「ただの猫?」
逆だった毛並みを舐めてねかせながら、白い毛並みの猫はうんうんとうなずきます。納得いくまで舐め終わると、鼻先でさっきの鳥をさしました。
「『ウミネコ』は、あれ」

 にゃあにゃあ。
 白と灰色の鳥が、さっき山猫が聞いた声とそっくり同じ声でなきました。

「あれが、『うみねこ』?」
山猫が言いました。自分のひげがしおんとしおれるのが分かりました。
「あれが、『ウミネコ』」
白い猫がくりかえします。山猫のひげを見て言いました。
「大丈夫? どうかした?」
「どうもしない」
『ウミネコ』を猫と勘違いしていただなんて、山猫は恥ずかしくて言い出せませんでした。カラスが笑っていたのを思い出しました。そうか。そういう意味だったんだ。
「魚、おいしそう」
山猫が地面においた小魚を見ながら、白い猫が言いました。お土産まで持ってきたなんて! 山猫は恥ずかしくて顔から火が出そうです。
「よかったら、あげるよ」
山猫が小さな声で言いました。白い猫がお礼を言って、大事そうに小魚を食べました。
「おいしい」
にっこりと白い猫が笑います。山猫のヒゲがぴんと立ちました。

「どうしたの?」
白い猫がまた聞いてきます。
「どうもしない」
山猫が言いました。小魚を持ってきて良かった、だなんて、やっぱり恥ずかしくて言い出せそうにありませんでした。

 にゃあにゃあ。
 ウミネコがまた鳴きました。山猫とただの猫はそれからずっと、暗くなるまで一緒に並んで海を見て過ごしました。

ショートショート No.657

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