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エッセイ 歩くことは信じること(「みちのく潮風トレイル記 潮風ふわり」ほか感想)

 昨年の12月に文学フリマ東京にお邪魔した際、少し早くに東京駅まで行って開場までの時間で東京ステーションギャラリーで開催中だった「みちのくいとしい仏たち」展をみてきました。東北地方に残る民間仏の美術展です。

 観光で行くような由緒正しいお寺にある立派な仏師が作った立派な仏ではなく、地方の村で大工さんが作ったりした仏像の展覧会で、タイトルがいいなあと思って気になっていました。(下は展覧会のリンクです)

https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202312_michinoku.html

そうした仏像によくつきがちな、「素朴」とか「土着」とかではなく「いとしい」。私の出身は東北ではありませんが、近くに何体か円空仏を祀ったお寺や、地区の行事のための(特に立派ではない)仏像がおいてある地蔵堂などがあり、そういう現役の、みんなが拝んでいる仏像に対する気持ちをよく表しているように思えたからです。

 図録の頭に載った文章を少し引用してみます。

はじめてお目にかかります
でも夢ではきっと会ってます
おばあちゃんが言ったはず
村にはほとけさまがいるんだよ
だまって何でもうんうんと
聞いてくれるほとけさま
まるいお顔に小さな目
思い出したでしょう
くやしくて眠れなかった夜
自分がいやになった夜
泣けばいいよと言ったのは
わたしたち
これからもずっとあなたの
そばにいて
ふふふと笑って見ています

「みちのくいとしい仏たち」図録

 私の実家の前には「こくぞうさん」と呼ばれるお堂(?)のようなものがあります。古い建物ではありません。土台部分は全力のコンクリートでできています。中に入ると畳が敷いてあり、仏像が数体飾られています。定期的に念仏講という地区の女性の集まりがそこに集まってお経を唱え、菓子をつまみ、雑談をする場所だったりします。(ちなみにこの念仏講の主な役割は、地域のお葬式に参列してお経をあげ、お菓子をもらい、雑談して帰ることです)
 小さい頃、この念仏講を羨ましく思っていました。お菓子がもらえるから。でも、大人になったいまでもまだちょっと羨ましく思います。自分が死んだ時、幼馴染や同級生、そうじゃなくても見知った近所の顔馴染みがお経あげてくれて、お菓子食べて、雑談して帰っていくの、なんかいいなと思うですよ。逆は辛いこともあるかもしれませんが、それでもきっといいなと思う。以前、祖父の妹にあたる方が亡くなったとき、お寺の和尚さんが「あの人は俺の同級生だったんだけれども、声が大きいので有名で、家の井戸端かいぎが寺まで聞こえてきて大変だった」とか「そこらじゅう遊びに行っては喋って帰るもんだから檀家のことを俺より知ってた」とか、その場にいた参列者が「あるある」という話をして、小さい頃からずっと付き合いのあった方だったのに、それほど寂しくなかったことがありました。仰々しい都会の葬儀にはない、不思議な安心感があったように思われます。

 展覧会に、村の寄り合い所の役割も果たしたという地蔵堂に飾ってあった十王像の展示がありまして、この像を見ながらお経をあげたり、囲炉裏を囲んで話したりしたという解説を見て、ああ、これ「こくぞうさん」だ。と嬉しくなりました。うちのこくぞうさんの仏像は決して立派ではないけれど、いつもおばあちゃんたちがお経をあげている現役の仏像です。そういう仏像はなんだか嬉しくなります。「頑張ってるね!」て言いたくなる。十王像の解説文を引用します。

 村の人々が純朴だから村のホトケは素朴で純真だ、というようなことではありません。これしか造れないという状況が否応なく簡素な造形を生んだのです。村のホトケが粗末な用材や稚拙な表現でしかないのは、それを必要とした人々が「これでいいのだ」と認めたからです。とはいえ、簡素だからこそ理屈や建前ではなく、わかりやすさと個性が同時に求められました。「これでいいのだ」から積極的な「これがいいのだ」という認識です。

「みちのくいとしい仏たち」図録

「素朴」で「純真」というのは使う側としては褒め言葉になりがちで、ことそれが地方の何かに向けられる時、言われる側としては複雑な気持ちになることがあります。「「これがいい」と思って一生懸命やった結果なんだけどな」というか、やっかみなのかもしれませんが。仏師による仏像とは違った造形をとる、仏師ではない人々が彫った仏像を「素朴」と乱暴に括らず、求められて「これがいい」と祀られた仏像であるという解説は胸をうつものがあります。

 その後行った文学フリマ東京で買った本の中に、居酒屋黒いねこさんの「みちのく潮風トレイル記 潮風ふわり」という本があります。歩き旅の本が好きなんです。

 「みちのく潮風トレイル」は震災後に作られた青森県八戸市から福島県相馬市までの太平洋沿岸をつなぐとても長いトレイルです。

 著者はこの全てをいくつかに分けて、新幹線で居住地と何度も往復しながら制覇したそう。旅行記ではその行程で出会った人たちとの思い出が綴られています。
 中でも「娘を待つ母」という岩手県釜石市でのおばあちゃんとのお話が心に残りました。震災関連の物理的、また住んでいる方々の精神的な傷跡は、離れた地域に住んでいる自分には安易に共感するのを躊躇うような、他者の悲しみにどう触れていけばいいのかを迷うような側面があります。私が未熟者なだけなのかもしれませんが、自分なりの答えをもがきながら見出していきたい課題です。それはさておき、このおばあちゃんは一人暮らしで、著者の方をお家に呼んで、ヒーターを効かせてみかんなんかを振る舞ってくれます。悲しい思い出をお持ちで、それでもここにいて、「またきてね」って泣いて著者を見送ってくださったそうです。

 悲しみの強弱は違うかもしれませんが、これ、何か覚えがあるな、と思って思い出したのは、社会人になって数年やっていた、地元のお遍路です。(四国のやつではありません)会社で地元のレポートを書くことになって、『そうはいっても地元のことなんか知らん!』と思った私は、休日、地域に昔からある遍路道を歩いて回っていました。とりあえず、地域を全部見て回ろうと思ったんです。動機が不順です。

 有名ではありませんが、江戸時代からあるもので、地域住民の間ではそれなりに回る人がいます。車で。歩く人は珍しいです。で、この珍しいことをやっていると、土地の方によく話しかけられます。
 お菓子をもらったり、秘密の抜け道を教えてもらったり。

 私は、このトレイル記を見て、お遍路に似ているな、と思ったんです。

 それは、みちのく潮風トレイルが震災後できた道だから、とか、多くの人が何か弔うような悲しみを持っているから、とか、そうした祈りと宗教のような理由とはちょっと違います。

 自分が古くて細い遍路道を一人で歩いている時、ずっと驚いて、感心していたことがあって、それは、「言われた通りに道を歩いたらちゃんとお寺に着く」ということでした。細い民家の間や、コンクリートがボロボロになっている旧道や、見渡す限り畑の誰もいない道も、全部ちゃんと目的地まで繋がっているんです。
 なんで繋がっているかというと、自分より前の誰かが歩いてそこに行っていたからで、他の誰かも、私が歩き始めるまでずっと、その道を歩いて行ったから。

 信仰心のあまりない、どちらかというと罰当たりの自分ですが、お遍路で歩いている間、ずっと、遍路の道と案内板、そして地図だけを信じて歩き続けていました。地図を作ったのも道を歩いたのも見も知らぬ他人です。ああ、お遍路って、他人を信じて身を預けることなんだなと一日中淡々と歩きながら考えていました。

 土地の人たちがよく話しかけてくださったのも、私が「お遍路さん」という一種の信頼のおける役割を持って訪れているからで、そうした信頼は、私の前の人たちが少しずつ作って行ったもののはずです。それをお借りして、私はお菓子をもらったり、抜け道を教えてもらったりしている。そこには不思議と、安心感のようなものがあります。ずっとあって、これからもあるような長い時間に、自分がいてもいいんだな、と思うような。

 名作でも遺産でもないけれど、実家のこくぞうさんの仏像は、そういう長い時間の間に誰かが作って、誰かが拝んでいたものです。しかも、多分、自分と同じような立派でも特別でもない誰か。おばあちゃんたちがお菓子を食べながら拝んできた仏像に自分も両手を合わせる時に感じる不思議な安堵感も、お遍路に少し似たものを感じます。自分の前の時代に知らない人たちがいて、後ろにも知らない人たちが続く、けど、自分はこの中にいていいんだなって、ずっと拝まれ続けてきた仏像を通じて思うんです。

 山を歩いて、荒廃した脇道を見るとき、人が歩かなければ道は簡単になくなるのだと強く思います。そして、ただ歩くだけで、ほんの少しその道の寿命が伸びる。自分が今ここを歩くことで、後の誰かが、ここをまた歩く助けになる。自分はここに来ていいし、後の人もここに来ていい。できれば、それがずっと続くといい。それはきっと、「いとしい」という感情なのだと思う。故郷の、土地とそこに暮らすひちたちに対するいとしさのようなもの。

 みちのくの仏さまも、潮風の吹く海岸線に暮らす人たちも、もちろん歩いてそこを訪れる人たちも、そして「こくぞうさん」とおばあちゃんたちも、ずっとずっとそこにいてほしい。誰かがいて、誰かが来て、ずっとずっと続く。私もいつかそこに混ざりたい。そう思うのは、きっと「自分がここにいてもいい」って思いたいからなんでしょうね。

エッセイ No.107

登場した本など

「みちのくいとしい仏たち」図録
岩手、京都、東京の巡回展「みちのく いとしい仏たち」の図録です。下のリンクは東京展に関する紹介記事です。
「青森・岩手・秋田の北東北のくらしのなかで、人々の悩みや祈りに耳をかたむけてきた個性派ぞろいの木像約130点を紹介し、日本の信仰のかたちについて考える。」という文言があります。土地に暮らす人々の祈りを聞いてきた木造たちは「正しい」とか「美しい」とかよりも「いとしい」と表現がしっくりくると思う。
あと、美術品を図録で見がちな私には「意外と大きい」と感じる像が多くて、生々しさに驚きました。木の質感のせいもあり、「あれ、小さめのおじさんが座ってる?」と気配で感じてしまうような像もありました。いい展覧会でしたよ。


「みちのく潮風トレイル記 潮風ふわり」居酒屋くろいねこ/著 2022.12

著者が青森県八戸市から福島県相馬市までの太平洋沿岸をつなぐ歩く道、環境省・長距離自然歩道「みちのく潮風トレイル」全長1,000km超を8年掛けて踏破した旅行記シリーズの総集編。文学フリマ東京でお見かけした時にお分けいただきました。本当は自分の旅行の参考に地域限定版が欲しかったのですが、売り切れだったために総集編に。文章の優しさや、エピソードの温かさに加え、写真がとても美しい本です。あと、作者の方がトレイルを制覇するだけあって、芯の強さが時折垣間見えるのが個人的には好きです。本のおまけにバブをいただきました。帰宅してから早速入りました。どうもありがとうございます。

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