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結局、自分のコンプレックスからは世界中どこへ行っても逃げられない。

今日の見出し画像は、ジンバブエのお土産売り場のビーズ細工。中央にあるのは、ジンバブエの国旗モチーフ。

人は思ったほど自分を見ていない


今日も朝から定員オーバーの乗り合いのボロい車”コンビ”に乗り、街へ。このコンビ内ではスリが日常茶飯事なので、スマホなどの貴重品を見せたり、ポケットに入れているのは要注意だ。
私はいつもお金もスマホも首から下げて服の中に入れて見えないようにし終始服の上からその感触を確かめている。
降りるときに渡す予定のコインを1枚握りしめて、狭い車内で、じっと固まって乗る。向かい(とと言ってもこれは座席じゃ無い)に座っていた子供は、終始私の顔を珍しそうに見ていた。

街についたら銀行へいき、お金を下ろした。銀行を出た後、お金を狙ってつけられたりするかもしれない。銀行の中でトイレに行き、引き出したお金を靴の中、下着の中などいろんなとこに分散させた。銀行を出たら、後ろを振り返って誰かが付いてきていないこと確かめた。防犯ブザーはいつも持っている。

この小さな街で、私は中国人と思われ、蔑称や中国語で挨拶をされることには私は慣れてきた。「中国語がわからない」という設定で通してるので、基本は無視。

私は、「基本外国人はボッタくられる」と思い込んでいる節がある。なので、いつも用心深く相場を確かめるのだけど、ジンバブエではそこまでボッタクられていない現実。ありがたい事にスリにも遭っていない

そう、人は思ったほど自分を見ていないのだ。もちろんジンバブエで「外国人」として目立つのは当然。
しかし、みんなその日暮らしが必死だし、私のパッと見だけしか見ていない。

自分(のコンプレックス)からは逃げられない

最近、ジンバブエで何人かの日本人と会う機会があり(全然いませんけどね)、私は他人と自分を比べてしまって落ち込んだ。
海外で日本人に会うと、私は劣等感を感じやすいような気がする。

年齢、学歴、経験や知識量の差、要領の良さ、喋り方、英語のレベル、肌の色、目の大きさ、などなど。本当に自分でもくだらないと思う。
自分の身体の事で、言われたくない事も久々に他人に言われて笑って誤魔化した。「また言われてしまった。」と気分が沈んだ。(おせっかいは時々容赦なく私を傷つける。)

日本人複数でいると、ジンバブエ人にも「この中の1人と結婚したい!」とか、からかわれる。
「外見しか見てないくせに適当な事言うな!(と思いつつ、きっと私は選ばれないんだろうな)」とネガティブの境地に達した。

2016年から1年オーストラリアに語学留学をして、
その時肌で感じた多様な人たちが暮らす自由な空気感
人と比べなくていい。私は、私でいい。
周りを気にせず、ここにいていいんだって思えた。
好きな格好をして、食べたいものを食べ、やりたい事をやり、会いたい人と会い、行きたいところに行く。

このオーストラリアでの体験で、自己肯定感の低さを克服したかと思っていたけど、爪がいつの間にか伸びているように、ある日突然その存在に気づく。

自己肯定感の低さを根こそぎ失くす事は、できないのかもしれない。
この、なつみみどりさんのnoteにもとても共感した。

時々、海外に行くことを繰り返すことで、ボーダーレスで周りを気にしない生き方を知ることができたのだから、少しずつでもその生き方を身につけることもできるかもしれないと思うのだ。(なつみさんのnoteより)

そう、世界中どこへ行っても、自分から逃げる事はできないのだ。
だから観念して
それを自分が認めてあげて、周りを気にしない生き方を身につけていく。
このトレーニングは、これからもいろんな機会で形を変えて私に何回もやってくるんだと思う。

次きたら、「おっ、また来たね”周り気にしないトレーニング”」とでも思おうか。こうやってまた自分と強烈に向き合える機会があるのが、海外生活のいいところでもある。

人は思ったほど自分を見ていない。
自分のコンプレックスからは逃げられないけど、周りを気にしないで生きる生き方を少しずつ身につける。

生きづらさは、自分で変えてゆける。
だから、私はnoteを書いている。

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