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春を謳う鯨 ㊱

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男の子が北原麗という名前の、近隣の理系国立大に通う3年生で、会社近くの印刷店でアルバイトをしていることを、鈴香はその次の週に、知ることになった。

鈴香はこの時、そんなことはまだ、知らなかったし、知ることになるとも思わなかった。

知らなくてもよかったし、たぶん、知りたくなかった。

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あ。

と…いう、こういう展開は…意外にあるものだ。少なくとも鈴香は、忘れた頃に来る、くらいの頻度では起きることだと思っていて、ただし、いいことだった試しがない。

苦手だった小学校の同級生が大学入試で前の席だったとか…気分を一新したつもりで付き合いだした子がサークルで酔い潰れたとかで、迎えに行ったら、前に付き合った子がうっかり、後期からそこに入っていたとか…「あ」にいい思い出なんてなくて、だから、知財キャンペーンのポスターのために印刷店を訪れたとき、料金表を取りに行った女の子を待つあいだ眺めた作業場のすぐそこに、あの男の子がいても、鈴香は「あ」とは思いはすれ、何も言わないし、何もしなかった。

もともと、ポスターを印刷するような「ちょっとそこまで」という仕事は、上司が外回りのついでの息抜きにしたがる仕事で、鈴香には回ってこない。鈴香が印刷店に来たのは週いっぱい、上司がリフレッシュと称して仕事を部下に丸投げして、家族でグアムに行っているからで、ほぼ2年ぶりだった。日頃しない行動を、仕方なく取る…鈴香は柿本と遭って、知りたくもない噂を耳にしたのを、思い出した。そう、そこで起きる出来事には、鈴香には、意味がある。

何も起こらない。それが、いちばんだ。

男の子は…わかりやすく「あ」と言って、立ち上がりかけて、会釈をして、そのまま作業に戻った。しばらくすると誰かと話し込んで、資材を抱えて奥の部屋へ、消えていった。鈴香はほっとしたような思いで、習慣的に、ブレスレットを確かめた。ほら今日は、忘れたりしていない…だから。鈴香は、安全だ…。それに、鈴香の左薬指にはいま、婚約指輪が光っている。

「売約済み」だ。

鈴香は自嘲した。まるで…秋波を送りたかったみたいで、そんな自分が気持ち悪かったのだ。いつまでも若いと思ったら、大間違いだ…あの子はたぶん学生で、軽く5つは下だろう。鈴香がどんなふうに見えているのかはわからない、でもあまり、鈴香がこう思ってほしいと思うような思いかたでは、もう、ないだろう…それに…ちょっと興味が湧いたものの、考えてみればなんというか、鈴香とは交わらないタイプだ。たとえ同級生にいたとしても、嫌い合うこともなければたぶん、惹かれ合うこともないだろう、タイプ。鈴香は、相手が、鈴香のことを好きで…とても好きで…いてくれないと…だから、みんなが言うような恋愛らしい恋愛は、よくわからなくて、…男の子は、みんなが言うような恋愛らしい恋愛の世界に、いるように見えた。

ただ、例えばそう…大学のクラスにああいう感じの子がいるという気分を味わえなかったのは、たぶん、残念だったのだろうな、と、鈴香は思った。

誰かは経験しているけれど鈴香は経験しなかった、色々なこと、もう、二度と戻らない、時間…。

受付票を受け取って、印刷店を出たときだった。

すみません。

鈴香はびくりとした。出入口のすぐ横に、あの男の子が立っていた。

あの、突然すみません、警戒しないで。僕、こういうもので…。

男の子は手にしていたコピー用紙を渡して、その隣に実物の学生証を示した。NK大…たぶん三年生…知能情報システム…北原、麗? 

えっと僕、いまさらなんですけど就活中で、OB訪問とか、やっと、しはじめたんです。それで会社、…あ、御社の、その、お話を、ぜひ聞かせていただきたくて…。

あ、…ああ、はい。いい、ですけど…。

鈴香は言ってから、真意を測りかねて、腕時計を見て、動揺をごまかした。こういうのはまずメールとか…けど、そうか、領収書のときたまたま社名を聞いて、いてもたってもいられなくなったかもしれないし、ポスターの社名を見て思いついたのかもしれない。話し振りからしてあまり、会社という意味では世馴れていなさそうだ…きっともともと、フランクな感じの子なんだろうな、先週の薬局のあれでふんわり、知っている感じになって、ハードルが下がったんだろう、明るくてさっぱりした感じで、愛想もいい…。

あ、まずはその、身分を明かさなきゃって、思って…すみませんなんか、焦って斜めってんなぁ…。ちゃんとした連絡先は、こっち。

麗は、QRコードの入った名刺を差し出した。

わ、最近の子ってこんなの作るの?  そっかぁ…。時代を感じるなぁ。

受け取る時に少し、指が触れて、なんとなく、目が合った。

でも…私、たぶん行きたい部署じゃないよ? 特許事務関係だから。誰か紹介は、できると思うけど…。あ、私も、名刺ね…?

鈴香はジャケットの胸ポケットから名刺入れを出した。片手で受け取った、鈴香の名刺を見つめて、麗は気まずそうに、頸に手を当てた。

あ、…そっか…そっか…それがその、まだあんまり、知らなくて…や、サイトでわかることくらいはちゃんと、読んでるんですけど、できれば一瞬、相談に乗っていただけると…。

…。あー、わかるなぁ。いいよ。ただ、今週だと今日と明日くらいしか時間取れないかも。

今週て…え、しかも今日いいんすか。たっすかる…。

ちょうどいいんだ? じゃ、今日でいいよ。次の人紹介するなら、早め早めがいいだろうし。

なんだか、意外というか、素朴な感じなんだな、と、鈴香は思った。さっきなんとなく想像したような、色めいた考えは、実際に話すと全く、思い浮かばなかった。赤ちゃんみたい。鈴香にも、こんな時期があったのだろうか…あったのだろう。年上の人とうまくいかないと思う頃があった、それはもしかしたら、こういうことだったのかもしれない。さっき、離れて見ていたときとは打って変わって、不思議なほど何も、湧いてこなかった。…助けてあげられるなら、助けてあげたいな。

6時半頃にあがれるけど、君は?

麗はうぉ、なんか、かっけー…俺は、いつでも、と言って、にっこりと笑った。

ありがとうございます。ほんとすみませんお仕事中に、しかも突然。でも言ってみてよかったぁ。とっかかりが、わかんなくて…。

ああ、…ね。あるある。…うち、狙ってる候補なの?

そうなんす。でもほら、もうみんな食い込んでるっぽくて…。俺、インターンとかも、してないし…。

学科的には確実にシード、あるでしょう。…まあ、詳しい話は今はいいや、6時…45分に、駅前のルノアールでいい? 知ってる?

麗は、にこやかに、向かいのドトールでよく勉強、してます、と、頷いた。

鈴香は、懐かしさで優しい気分になって、微笑んだ。

頭を下げられながら別れて、道を曲がったところで、渡されたコピー紙と名刺をしまうついでにふと、名刺を裏返した。

見知らない株式会社の英字の社名と、「代表 北原 麗」の文字が並んでいた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。