見出し画像

春を謳う鯨 ㊼ (完)

◆◇◇◇ ㊻ ◇◇◇◆

鈴香は気を取り直して、俯きかけていた顔を持ち上げ、悩みのなさそうな穏やかな顔つきを心がけて、鈴香にはわずかに速く感じられる、人の波に合わせた調子で歩きながら、昨日作りかけのまま置いて帰った明細書をどう仕上げたものか、頭に浮かぶぼんやりとしたイメージを遠巻きに、追いはじめた。

:1HfOUTLINE

◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

---------------------------------

生姜焼き用に豚肉を漬けたジップロック、塩肉じゃが、秋刀魚の中華煮、セロリと2色パプリカのレモンマリネ、ブロッコリーの胡麻和え、牛蒡と人参のカレー風、アスパラつくねの焼きびたし、浅葱、明日の味噌汁用に銀杏切りにしておいた蕪…鈴香は冷蔵庫を一旦閉めてから、背伸びをしてもういちど開き、わかりやすくタッパーを並べなおした。

付き合い出した頃、楢崎くんは、大きな冷蔵庫を買ったのはビールと氷のためだと言っていて、あとは切って炒めればいいような種類の野菜と、冷凍庫には冷凍食品の代わりに、保冷剤が入っていた。

鈴香が週の半分、楢崎くんの家に泊まるようになって、この1年ほどは楢崎くんの提案で、週末にふたりで作り置きをするようになった。土日は楢崎くんがご飯を作るか外に食べに行き、鈴香が作り置きを作る。鈴香が持ち込んだ圧力鍋はすぐ、もっと高い、多段階式の圧力鍋に買い替えられた。冷凍庫にはピザ生地や、グラタンやスープに使う野菜ペースト、鈴香用のアイスクリームやベーグルが入っていて、野菜室には根菜や果物が混ざっている。

鈴香の家の冷蔵庫は単身用で、それも含めて、楢崎くんの部屋に引っ越すタイミングで鈴香の家電や家具はほとんど、処分する予定だった。

振り返ると、この1、2年の半同棲の時間は、鈴香にはとても、長かった…不自然で、不安定で…別れたいと思ったのも当然だ、だって、鈴香は自分の家をちゃんと借りていて、自分の家にはちゃんと自分の物が揃っている。一晩経って、前々日に出た時と同じ様子の部屋に帰ったときの、生活が何かに奪われているような気持ちを、けれども鈴香は楢崎くんには、伝えてはいなかった。

もちろん建前は、急かしてはいけないという気持ちからだった。でも、鈴香の迷いがそうさせていたのも、確かだ。楢崎くんの、ホテルみたいに整った新しくて広い部屋が、自分の部屋のようになっていく。鈴香の、明るいだけが取り柄の、物がなくてもごみごみしてしまう、小さな部屋…別れてまた、ここから始める…? それともただ、そんなふうに見えるのはいまだけで、鈴香は将来の幸せな出会いを消し去って、いま目に見えているものに、安易に縋りつこうとしているだけかもしれない。自分のことなら、自分で選べばいい。でも…。煮え切らないのは鈴香も一緒だった。結婚についての会話はふたりのあいだで、冗談や例え話に混じって、恐る恐るにしか、交わされなかった。

そうだ、いま、やっと…。

楢崎くんは一人の夜も、作り置きがあると便利でいいと言っていた。

夜は、飲むだろ。酒まで入れると財布、もたないよ。だいたい、定食屋は米が出てくるし、居酒屋は味が濃いし。

悪い気はしない。楢崎くんも風邪を引かなくなったと言っていたし…とはいえ、献立や量が悪いとあの調子でぐちぐちと嫌味を言われるから、鈴香は料理を勉強するようになった。こんなふうに、合わせるような、渋々とした仕方で興味を持つのは憧れではなかったけれど、なにはともあれ鈴香には、料理しやすいキッチンも、大きな冷蔵庫も、健康的な食事も、一緒にそれを食べる相手も、ここにある。そう、憧れているような仕方では、ないかもしれないけれど…憧れていたものはいつも、気がつくと日常になっていて、鈴香の周りで、鈴香を支えている…。

鈴ちゃんの周りを、電子か星かって感じできらきら、くるくる回ってる、その沢山の好意のことさ…。

塩肉じゃがはミナガワに教えてもらった。楢崎くんは、別に、普通。家の料理なんて不味いとき以外、いちいち感想言わないよ。と、本当になんの感想もなく食べていて…鈴香はミナガワが教えてくれた日、奮発しちゃった、と言って和牛のパックを出した、幸せそうな顔を毎回、思い出して、愛おしいような、悲しいような、寂しいような、優しいような、あの、眠ってしまいたい、という気持ちが胸をよぎるのを、ただ、受け止めて、箸を動かすのだった。ミナガワは明らかに、カップル向けの料理ばかり選んで、教えてくれている…それは、ミナガワが、鈴香と食べたいから…?

鈴香は、冷蔵庫を閉めたその手で、冷凍庫からハーブティーの茶葉を出して、ポットに計り入れ、湯沸器の電源を入れた。

歩きすぎで、下肢が重だるい。今日は予定通り、ベッドを見に行って…想像していたとおり、鈴香は横で一緒に寝たり立ったり、値札をぼんやり眺めたり、買いもしない小物を手に取ったり戻したりしているだけだった…楢崎くんはもう、タイプを跳ね上げ式で収納付きのダブルベッドに決めて、選びにかかっていた。

捨てきれないガラクタ、たくさんあるだろ。見えるとたぶん、殺したくなると思う。

マットに寝転んでいた鈴香は、傍に立ってカタログと現品を比べている楢崎くんを、見上げた。天井のダウンライトの残像が、楢崎くんに重なった。鈴香は瞬いてから、機嫌が悪くはないらしい、今日の楢崎くんの様子に少し、安心した。

ガラクタって…。私そんなに物、ないよ。あ、たっくんの自転車用品も入れたらいいと思うな。私はああいう工業的なものが室内の見えるところにあるの、ずっと抵抗ある…。ていうか、なに、人を転がり込む居候みたいに…。

転がり込んで居候になるだろ。

家賃は払うじゃない。

貯金に回すよ。いままで鈴香が入れてくれてた差額分や家電の割り勘分だって、貯金してある。貯金というか…長期運用に、ちまちまとね。ちまちまとしか、もらえないからね? いまはまさかで15パーくらい利益出てるけど、振れ幅がそれくらいあるって証拠でもある。その場の数字で喜んじゃだめだな。

え、…。

…。俺もちまちま放り込んでたから、一緒に使う用の長期は500万くらいになってるかな。…もらった金なんだから、どう使おうと勝手だろ。とにかく、鈴香は俺の金で住んでる。から、居候。鈴香が家賃だと思って払ってるのは、俺への上納金。

…あのね、たっくん…。そんなこと急に、しかもこんなところで言われても…困るよ。借金よりは、ほっとするけど、突然すぎて私、なにも思い浮かばない…。騙されたみたいな気分にも、なるし…。

楢崎くんは居心地悪そうに値札の額面を親指でなぞった。やがて、鈴香を押し除けて横になると、鈴香に視線を流しながら、呟いた。

却下だよこれ、やわい。うちの女王さまは激しいのが大好きだもん、これじゃすぐ、だめになりそう。

な、…。

…寝心地は、広くなるだけで随分と改善されるわけだからこの際、そんなに高いのじゃなくていいかもね。子どものこともあるし…引越し先の間取りによっては買い替えも考えないと。

楢崎くんはベッドから立ち上がった。

ひととおり、回ったから店員捕まえよう。今日決めちゃうんだから、てきぱきね。まあ、鈴香はその辺でごろごろしててもいいけどね? 横に女がいると、ふっかけられるからさ。あの68番のやつか、そこの…。

40番? たっくんが気に入ったのあったら、それでもいいよ。…じゃあ、掛け布団のほう、見に行こうかな。いまシングルでごまかしてるもん、セミダブルでも小さいのに、ベッドがダブルじゃ冬、取り合いになる…。

ああ。ここのは、予算オーバーだと思うけどね。見るだけ見てくれば。どうしても気に入って、泣きたいくらい欲しかったら、検討してあげる。

偉そうに…。

はいはい。「その時は話し合おう」。じゃ。

結局、鈴香は貯金の話はそれから、できなかった…鈴香は自分用に、そこそこの貯金やポートフォリオはある。もちろん500万には及ばないけれど、もっときちんと、話してくれていれば…鈴香が家賃を払い出したのは、2年前からだ。その前も、食洗機や炊飯器を買ったりするのにはだいたい半額、払っていたし、このまえ、洗濯乾燥機を買い替える時も見栄を張って、三分の一は出した。鈴香はそれで、すっかり自分のものみたいに…。

「家電の割り勘分」? 楢崎くんは、ずっと…? 

楢崎くんが浴室から出た気配があった。鈴香はティーカップの位置を直して、ポットを開けて、抽出の具合を確かめた。

もう寝る準備、できたの?

あ、うん。いま、お茶飲もうと思って…。

楢崎くんはバスタオルを巻いただけの姿で、キッチンに入ってきた。

? 麦茶? 氷、入れる?

話しかけても無言で近づいてくる楢崎くんに身構えた鈴香は、後ろから抱きすくめられて、身を硬くした。

…したいの?

乾き切らない体を押し付けられて、ルームウェアを通して背中が熱く湿るのを、鈴香は感じた。楢崎くんは後ろから両手を回して鈴香の頬を挟んで、鈴香の首筋に唇を這わせた。

うん。しよ。したい。

お茶、冷めちゃう…。

手持ち無沙汰だっただけでしょ。アイスじゃだめなの? 

…だめでもないけど…。

これ、嫌い。

楢崎くんは鈴香のバレッタを取って、ティーカップの横に置いた。押さえを失って滑り落ちた鈴香の髪からは、シャンプーの香りがふわりと、立ち上った。

…。

楢崎くんは後ろから鈴香の髪に顔を埋めて、辿り着いた鈴香の左耳に、齧るように歯を立てながら、鈴香が持ち上げかけた左手首を捉え、もう片方の手をルームウェアの下から弄り入れて、鈴香の胸の膨らみの表面に、掌を滑らせた。動いた鈴香の手でティーカップが、ソーサーに当たって、音を立てた。

カップをしまうのを諦めた鈴香は、カウンターの縁に右手をついて体を支え、振り向いた。楢崎くんの唇はすぐに、鈴香の唇を、探し当てた。


---------------------------------






『春を謳う鯨』  







今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。