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春を謳う鯨 ㊳

◆◇◇◇ ㊲ ◇◇◇◆

あれ…? ないな、おかしい…。え、あれ? まじで、え…?

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…? 大丈夫? 見つからないの?

うん…絶対あるのに。ついさっき、来る前に、書き足してたから…。

麗は、掻き混ぜるようにリュックの中を探して、あ、あったあった、別のノートに挟まってました、焦ったぁ、と呟いて、キャンパスノートを出し、おもむろに、鈴香のほうへ向けて、それを開いた。

なにかの図面と、その下には、ギリシャ文字らしい不思議な文字の混ざった、蟻のように小さな文字と数字の並んだ数式が、斜め書きに何段も続いていた。

…?

麗は、ノートをぱたんと閉じて…鈴香に、にっこりと笑いかけた。

引っかかったぁ。俺、就活しなーいよ。院に行くから。

…。…君、…。

鈴香さん、善良すぎるよ。ね、しかも面食いでしょう。悪い奴に騙されちゃうよ。心配。

…。

「鈴香さん」…? 鈴香は動転していた。恥ずかしいやら腹がたつやら、感情の向けかたがわからなくて、困っていた。どうすれば…? たぶん、正解は、なにも言わずに即座に立ち去ることだ、けれど…立ち上がりかけた鈴香を、麗はわたわたと制止して、だめだめ、まだ話終わってない、肝心のとこ聞いて、大事大事、と掠れた小声で叫ぶように言った。鈴香は、鈴香がトイレに行くと思ったらしい店員がぴくりと、反応したのを横目に、眉根を寄せたまま、腰を下ろした。

あのね。私、会社のことや社会人のこと、知りたいから私に質問あるんだと思ってたの。そういうのなら、会えないよ。

そういうのって?

異性として見て、個人的に会いたいと思うようなこと。

鈴香さんは異性なのに、異性として見るのは変なの?

…。ね、頭が悪いわけでも、頭が堅いわけでも、ないんでしょう。言葉遊びでごまかさないで。無理なの。何の望みもないし、麗くん…北原くんとは絶対に、どんな意味でも、付き合えないよ。縁がないの。

麗はきょとんとした風情で鈴香を見つめた。よく見ると…背格好のいい綺麗な子だな、くらいに思っていた麗が、ちょっと見かけないほど整った顔立ちをしていることに、気づいて、鈴香はますます、混乱した。どうして、こんな子に、自分はこんなことを言っているのか…? 思わず防御態勢に入ったけれど、自意識過剰なんじゃ…? でも、とにかく、はっきりさせておかないと…。

なんで? と、麗は首を傾げた。

君は学生で、私は7歳も年上の社会人だし…。

だから?

なにより、私には婚約者がいて、来年には籍を入れる。

それで?

忙しいの。仕事も。

だったら、なに?

麗は鈴香の顔を覗き込んだ。

全部言い訳じゃん。さっきから鈴香さん、俺のことが嫌いだからって言わないけど、その辺どうなの?

私、急に人のこと好きになったり嫌いになったりしないもの。けど、君はなんだか強引そうだし、おちゃらけた性格してそうだから、そもそも、なんであれ人と人として、接触するのはやめといたほうがいいだろうなって、思ってるよ。いま。で、もう帰りたい。帰っていいよね?

おちゃらけたって…と、麗は苦笑した。

サプライズって、楽しくない?

君にされても、嬉しくない。

麗は…なにを考えているのやら…両手で上腕を抱えて上躯をゆらゆらと揺らし、にこりと笑ったあと、だぁって、と、口を尖らせた。

俺、鈴香さんに会いたかったけど、そんなこと急に言ったら、ナンパっぽいじゃん。周りの目もあるし…改めて見ると、すごい真面目そうだから、なにか理由、要りそうだったし…ね、そんなに長いあいだ騙してはなかったよ。怒んないで。ごめんなさい。

ナンパっぽいもなにも…こういうの、ナンパって言うんじゃないの。

ナンパなわけないよ。告白だよ。むしろ硬派。

告…白…?

うん。告白。いくよ。

麗は腕を抱えていた手を膝の上に据えて、息を吸い直したかと思うと、大真面目な顔をした。

好き。運命だと思った。鈴香さんのこと、好きです。

…。

鈴香は愕然というか唖然というか、…とにかく、二の句が継げなかった。いま、なにが起こっている…?

ね、私さっき、…。

あ、モンブランとチーズケーキください。

………。

また、無理って言うつもりだったでしょう。待って。その点については俺、極限まで譲歩する決心で臨んでるから、とにかく話し合おうよ。

話し合うことなんて、…。

たくさんあるよ。話し合わなくていいのは、俺が鈴香さんのこと好きで、鈴香さんが…俺のことちょっといいな、くらいには思ってるけど、付き合う気は全然ないっていう、前提についてだけ。ね。

ね…混乱させるようなこと、言わないで。その前提を変えるために、君はいま話してるわけでしょ。その前提は、何があっても、変わらない。何も起こらないよ。

? 何かを起こしたいわけじゃ、ないよ…?

じゃあ、…何がしたいの。

鈴香さんのこと、好きでいたい。

…。それは、君の問題だよ…。

「好き」って、一人で成り立つ感情じゃなくない?

だから失恋っていう言葉があるんだよ。仕方ないときも、あるの。

「仕方ない」…? 鈴香はどきりとした。仕方ないと思っているのは、鈴香自身だ…。

んー…どうかなぁ。鈴香さんだって、ここで俺のこと切っちゃうのはちょっと違うなって、思ってくれてる気がするよ…? 考えようよ。じゃあさ、例えば…俺には恋愛で、鈴香さんには恋愛じゃないっていう、それが成立すれば、何の問題もないように見えない? あとは実現方法を考えればいいんじゃないの。きっと答えが出るよ。話し合おうよ。

不意に麗は黙り、前のめりになっていた上体を、すっと引いた。

モンブランのお客様。

両方、真ん中に置いといてください。と…言って、店員が下がると麗は、鈴香に向かって、微笑んだ。

鈴香さんどっちが好き? あ、ふたつとも半分こする? それとも、どっちも食べる?

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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。