見出し画像

春を謳う鯨 ㊹

◆◇◇◇ ㊸ ◇◇◇◆

鈴香さんにはそういう秘密、ないの?

:1HfOUTLINE

◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

---------------------------------

そういう秘密?

今の自分の、いちばん根っこの部分をぐちゃぐちゃにしてるような、秘密。

…。ないよ。秘密なんて、…向いてないもの。見ればわかるでしょう、真面目で堅実なだけが取り柄で、ほんのりマリッジブルーだけど、本腰を入れて遊ぶ勇気なんてない。ずっと同じで終わりのない、ちまちました、地味な仕事してる…もうすぐおばさんになる、サラリーマンだよ。

俺には全部、違って聞こえるよ。

…。もう少しポジティブに言えば、嘘をつくのが苦手で、生きかたが不器用で…それでもどうにか、30前に結婚する目標が叶ってほっとしてる、働き盛りの女子正社員かもね。

ポジティブに言ってるの、それ?

たぶん。印象は悪くないはず。魅力はなくても、ね。

つまらなさそうに、言ってしまったかもしれない。鈴香が俯いていた顔を上げると、優しげな微笑みをたたえた麗がいて…アルコールに濡れたその眼差しを、鈴香に向けて、注いでいた。

俺には鈴香さんは鈴香さんに見える。

鈴香は、なんと答えたものか迷った。「鈴香さんは鈴香さんに」…? どういう、意味…?

それは、…当たり前で、つまらないな…。

そうかな。鈴香さんには、俺が俺に見える?

…。

そういうこと。

麗は静かなペースで、けれどもずっと、飲み続けていた。腕時計を見た。9時…もう一杯くらい、軽めのものなら…鈴香は二杯目から置いたままにしてもらってある、メニューを手に取って、カクテルの字面を指で辿った。あった、たぶんこれだ、サンジェルマン…。

その…女の人ね。

うん。

あとをつけたり、家に見に行ったり、してたの?

あー…うん。別れようって言われて連絡つかなくなって、そのあと少しだけ、遠く、遠くからね。

少しってどれくらい?

1週間くらい。仕方ないよ。俺そのときまだ、高校生だよ。

…。性格はそんなに簡単に、変わらないよ。

もうそこまで、現実の生活に執着ない。ねちこくしたい欲求は研究で発散できてるよ。鈴香さんはそういうの、嫌い?

嫌いっていうか…とりあえず、ストーカーが好きな人はいないと思う。

わ、ごもっとも。でっすよねー、と麗は苦笑して、いったん、ウィスキーグラスの水滴をおしぼりで拭い、戻したおしぼりをつんつんとつついて跡を観察しながら、話を続けた。

あの時の…俺は、他に何にも、することなくて、他に何にも、できなかったんだよ。連絡しないことはできたよ。声をかけないことは、できた。一人でいることも、どうにか、できた。でも考えないでいることは、できなかったんだよね。他に考えることなんて、なんもなくて。今でこそ、したいと思うような何かっていうか、自分にしかできないような何かが、あるけど、あの時はそれさえなかったし…たぶん、物理的に近いのがなによりも、よくなかったんだよ。だって、今はもう…。

麗は脚を組み替えた。クリーム色のカクテルが来て、鈴香はそっと、香りを感じた。これが、ぬるくなる前に鈴香は、帰らなければいけない…。

高校生で、そんな…。

切れてしまった会話を繋ごうと、鈴香が呟くと、麗は調子を明るくして、応じた。

勉強はしてなかったけど高校、毎日ちゃんと、行ってたんだよ。思えば、恋愛まわり以外は普通も普通に、高校生だったの。学校の友達もいたし、コピーバンドもしたし、体育大会では応援団して…文化祭でお化け屋敷作ったり、プールでほらあれ男子シンクロ、曲芸みたいのね、みんなで残って練習して、やったりね。そういうの全部、あの人に話して、あの人は若いねーって笑って聞いて、そんな毎日だったんだな…思えば、はっきりとした記憶って、つらくなってからのしかないや。あーあ…。

…。

子どものことが…なかったら、今頃ただの思い出になってるかもしれなかったのになー…。しかも結構、やり手っぽいじゃんね。おま、高校で?!みたいな。

鈴香は微笑んでみせた。

…。仕方ないよね。仕方ないっていうか…俺のほうからは、大人なんだからそんなのは黙って、適当に言いくるめて別れてくれてたらって、思ったりもするけど…あの人だって人間で、俺の気持ち考える前に、まず自分の気持ちがあるんだから、それを曲げてほしいって俺が思うのはさ、たぶんやっぱり、違うんだよね。…あの人は…きっと俺が、ちゃんとあの人の何かをわかって、その何かを受け入れてあげることを、求めてたんだと思う。でも俺が…わかんないし、受け入れることもできないのは、きっと、あの人にはわかってて、だから…あの人は謝りながら、…がっかりして、怒ってたのかもしれないよね。俺はそれで、怒られてるような気がして、悲しかったのかもしれない。

…。

俺、…大学で東京に出ちゃおうって思って、それから勉強頑張ってさ。勉強向いてて、1年浪人はしたけど、結構いい成績で受かって。いま受けてる仕事も、片っぽなんか請け請けの二次請けだけどまあ、まあまあね、うまく回ってて、2年分の奨学金さっさと自分で返せそうだし、大学でも研究室残っていいよみたいな感じに、なってる。

うん…。

ちゃんとやってるんだよ俺。

うん、きっとね。

俺、…あの人がいなくてもたぶん、生きていけちゃうんだ。そりゃそうだよなって、…まあ、当たり前なんだけどね。なのに、いまのこの、東京での生活は、なんだか、夢の中みたいで…記憶喪失が治らないのを諦めて、新しく生活を始めてるような、そういう喪失感があって…迷子みたいにね、ここにいるっていう感覚があるだけで、ここがどこか、いまいち分かんないんだ。こんなにちゃんと、生きれてんのにね。

麗は、鈴香に嫌いではないかどうか尋ねてから、チョコレートを頼んだ。

すぐに過ぎちゃったなぁ。人といてこんなに時間早いなんて、こないだ技術の試験、グループで受けた時以来。

そんな? 今日って緊張感、すごいんだね。

? 楽しすぎてやばいって、意味だけど…?

そう…。

あ、あれしていい? あーん。

や、無理。

あー。また無理っつったね?

…じゃ、してあげるよ、はい、あーん。

…。

麗は、チョコレートをほおばりながら、少しだけ離れて座り直し、ウィスキーグラスを揺らして、溶けた氷と混ぜてから、口を付けた。

俺のこと、ちょっとは知ってもらえた? 安心できる?

さあ…。そんな話、ありそうもないし…でも…嘘つく意味もない。どうして、こんな話をしたのか、考えてるよ。

考えてもわかんないよ。俺にだってわからないんだから。ただ…。

ただ?

ずっとひとりで抱え込んでおくの、結構、きつかったんだなって、いま、思ってる。

そうかもね…ちょっと楽になったような顔、してる。本当に、誰にも話してなかったんだ…?

麗は無言で、弱々しい微笑みを返してから、小さく二回、頷いた。

私なら関係ないから、話せたの…?

関係ないの?

たぶんね。

俺と鈴香さんはどんな関係?

さあ。だからつまり、…関係のない関係…?

鈴香はサンジェルマンを口に含んだ。火がつきそうなほど強いのが好みな楢崎くんには、鈴香が好きなカクテルは、凝りすぎたお菓子呼ばわりされるけれど…お菓子にはお菓子の楽しみかたがある。鈴香は、味わいたいくて飲むのだ。酔いたくて飲むわけじゃ、ない…。

麗のグラスからは時々、ウィスキーの香りが漂ってきていた。自分が、酔いすぎずに、けれどもはっきりと酔っているのを、感じた。ふと、いままで気にしていなかった、音楽に耳を傾けた。ムードだけはある、知らない曲がかかっていて、鈴香は今日のことは忘れないだろうけれど、このメロディーまで覚えておくことはないだろう、…また…と、思った。

誰かの、何かの、曲の話…楢崎くんと来た日、楢崎くんはBGMの話を鈴香にした気がする。でも、誰のどんな曲の話をしたのだったか、鈴香にはもう、思い出せなかった。


〉》》〉㊺  〉》》〉


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。