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春を謳う鯨 ㊷

◆◇◇◇ ㊶ ◇◇◇◆

交差点の向こうに、あちらの出口付近をちらちら見ながら、所在なさげに車を眺めて待っている、麗が見えた。鈴香はほんの少しのあいだ、まだ麗には見えていないらしいその場に、留まった。

今から、あの隣に、自分が…?

交差点のほうへ出て行って、手を振ると、麗はそこで待っておかずに、横断歩道を進んできて、鈴香にたどり着いたところでくるりと反転して、鈴香に並んだ。鈴香は、のんびりとした調子で隣を歩く麗を、見上げた。

目が、合った。

…なに? 背伸びしすぎた?

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ううん、似合ってはいるけど。

けど…?

ショーウィンドウから抜け出てきたみたいなんだもん。びっくりした。もう少し普通でもよかったのに。

普通…違う、スーツはまあ、普通、か…と、鈴香は困惑するような気分で考えた。よく見かける、うっすらと細い縞があるタイプの、紺のスーツに、薄青い生地のワイシャツ、素材違いで同じ色をした千鳥格子模様の、濃紺のネクタイ姿だった。長めの髪が多少、浮世離れした印象を与えはするけれど、長いというほど長いわけでもないし、染めてもいない。リュックは前に見たのとは違う…若めのデザインといっても、きちんとした、ビジネスリュックだった。ピアスもなし、裸足に靴を履いているわけでもなければ、手首からアクセサリーを覗かせているわけでもない…。

かっこいいってこと?

うん…かっこいいよ。仕事で着てるっていうより、着るのが仕事みたいに見える。

麗は道を指さして、鈴香を言外に導きながらあの、考えの読めない、不思議に寂しそうな微笑みを、鈴香に向けた。

そう? 俺ね、高校の頃、着る仕事してた。

モデル?

んー…事務所入ってとかじゃなくて、デザイナーのミューズみたいなの。弱小デザイナーだったし、ギャラも、雀の涙だった。けど、見られるのに慣れたのは、得したかもね。

ああ、それで…。

それで?

ううん、おどおどしてなくて、綺麗だと思う。そんななのに、そういう仕事しようと思わないんだ…?

うん…向いてなかった、かな。なにより、勉強好きだし、研究好きだし。

ふうん…。

鈴香さんはいまの仕事、憧れだった仕事なの?

どうだろ。もともと、職業に憧れみたいなのはなくて…。ただ、自分の才能を活かすことで、本当に才能のある人たちを支えられるような、淡々とした…根気強い、目立たない仕事がしたかったの。思えば、煌びやかではないけど、憧れは憧れだったのかも。

何に憧れてたの?

…さあね。思いつかないよ。けど、もう色々、憧れるようなものは身近にあるんじゃないかな。あとはあるものを守って、育てていきたい、かなぁ。もともと、小さい頃でさえお姫様とか大統領とか、適当に言ってた気がするし…。

道は暗い。いつのまにか秋が、始まりかけていた。茂みの向こうに、ホテルが見えてきた。麗がもし部屋をとっていたら? まさか、そんなはずはない。それに鈴香は必ず、帰らなくては…けれど、どこに帰るというのだろう? 鈴香は…いま…どこにいる? 

ほんのしばらく登り坂になった。背伸びしちゃだめだ、そう思うのにほら、今日は、ヒールが高い…。

私、昔から、…願いごとするとね、願ってたのとはちょっと違う形で、願った以上のことが、叶っちゃうの。だから、あれがほしいこれがほしいって、なるべく、考えないようにしてる…自分が怖いときがあるし、…本当はそんなにたくさん、いらないんだ、たぶん…。

それ、不思議な話…?

あ、…ううん。なんか変な言いかたになっちゃった。私って、目標を立てると真面目だからついつい、努力して、きつくなるんだよねっていう…話をしたかったの。自分を、大切にしようと思うなら…向上心があったり、それを支える力があったりって、それほどいいことでもなかったりするんだよ。

そういうもの?

かもしれないって最近、考える時がある。…大人って、つまらないと思う? けどね、頑張って手に入れたものって結局、頑張りつづけてないと、維持できないんだよね。

鈴香さんは頑張るの、嫌い?

ううん。好き。でも、ずっとずっとは、疲れちゃう…かな…。

ロビーにも既視感があった。そう、ここだ…エレベーターは、ふたりきりで乗った。中央に少し離れて並んで、無言で到着を待った。

降りてからすぐは、ふたりとも左右に視線を巡らせた。ラウンジのほうへ足を向けるとそちらには、ここから先は深夜だ、とでも言いたげな雰囲気が、漂っていた。

まだ、7時になったばかりだ。時差ぼけしているような、気怠い、浮遊感…。

席に通されるときホールスタッフが麗に、親しげで思わせぶりな目配せをしたから、鈴香はまさかとは思うけど、常連とか? と、麗に尋ねた。

ううん。さっき下見にね、来て。こっそり席、替えてもらっちゃったんだ、あのお兄さんに。

え、下見に…? さっき…?

そりゃあ、さぁー。こんなとこ来たこと、ないもん。みんなどうしてるかとか、こそこそ訊いてさ、意外に親身に、教えてくれたよ。気をつけること多すぎるだろーって、途中から半笑いになっちゃった。かっこいい大人って、記憶力どうなってんのかな。

嘘…わ、恥ずかしー…。結構臆面もなく、見られてるよ…?

だめだった? ごめん…。…あ。気にしないで、俺だけ見てればいいよ。って、セリフ、ここで投入するのは? 名案じゃない?

照れないで言えばいいのに、変化球、と、鈴香は笑った。さっきの、ホール担当の男性が来て、本日はお料理はご注文いただいておりますので、と、品書きを説明した。その背後に、東京タワーが見えた。瞬いて煌めきに見入る鈴香に、スタッフは満足げに微笑みかけた。

1杯目は御二方とも、シャンパンとのお伺いでよろしかったでしょうか。

鈴香が答えずにいるのをちらりと見た麗は、ぎこちなく、は、はい、こっちの白のほうで、と、答えた。

…常連って言ったほうが、お洒落だった?

鈴香のグラスに自分のグラスをそっと押し当ててから、麗が尋ねた。

それはそれで…。というか、こんなところ一人で来ないんだから、常連って、私の印象そんなによくならないよ? なんだか、…混乱するなぁ、麗くんって、…。

麗。呼び捨てにして。

…。

いままで男の名前、くん付けでしか呼んだことない…? 麗って、呼んで。ね。「きみ」も禁止。名前で、呼んで。違和感あるなら、慣れて。

…。…麗、って、大人なのか子どもなのか、分からなくて、…混乱するよ。

あー…俺も。俺も…わかんないときある。これから年取れば、はっきりしてくるんじゃないかなぁ。会社。始めてみたりしたでしょ、そこでもなんだかんだ、亀甲年功でさ、俺、おじさんになるの待ち遠しいわーって、思うとき、あるんだよね。

それね。若者は一括りでおじさんって言うけど…おじさんって、想像以上に多種多様だよ? どんなおじさんになりたいか、若いうちから決めとかないと。

鈴香さんの上司は?

おばさん。あ、お姉さん? かな…そういう難しい年齢の、ワーママ。

ふうん…。

鈴香からは、訊くこともないし、話すこともない。質問表でも持っているのかと思うくらいに麗は鈴香を質問攻めにした。鈴香は佐竹さんとミナガワのこと以外には、…お姉さんぶった物言いでだったけれど、ごく素直に…答えた。Q大に行ってそのまま福岡で公務員になった、文系の弟の話、海外旅行には台湾の一回しか行ったことがなくて、その一回でもう、国内旅行を楽しむほうが性に合っていると思った話、石垣島に行ってみたい話、途中から実験やら何やらで幽霊部員になってしまった、ビリヤードサークルの話、もうシャーレには興味がない話、クローゼットがすっきりしていると安心する話、楢崎くんがそこまで悪い人でもない話、会社の飲み会は意外にも嫌いではないけれど、部署の性格であまり飲みに行かない話、コスモポリタンとソルティドッグ、チャーリーチャップリンとオールドハーパーのダブル…。三杯目になる頃には、二人とも、話すより、黙って外の煌めきを見る時間のほうが、長くなっていた。

お酒、強いんだね。

んー。緊張してるから、酔わないのかも。

…。

鈴香さん。俺ね、鈴香さんに信用してもらうために、どうすればいい?

信用って…。はじめから、さっぱりした、感じのいい子だと思ってたよ。

え、さっぱり…?

うん、自慢できるようなことたくさんありそうなのに、ぜんぜん、俺俺言わないし。といって、謙遜するでもないし。

自慢かぁ。もっとすごくなったら、自慢するよもちろん。そのために頑張ってると言ってもいいくらいだもん。謙遜は…したことないから、わかんないや。

そういうところ。

好きってこと?

…そうだね、ライクっていう、意味でね。

麗はここに来ることにこだわっていたように思えたのに、来てから全く、鈴香がここで何をしたのか、尋ねていなかった。鈴香は、ずっと…ずっと前、楢崎くんと座っていた席に、目をやった。麗くらいの年齢の、小柄な可愛い男の子と、その子と同じような趣味格好の中年男性が、親密そうに小声で何か、話し合っていた。フロアには前よりも外国人が多い、でも、他は変わらない、そうだ、あの場所に、ふたりで…。鈴香と楢崎くんは、何の話をしていたろう、どんな風に見えていたろう、いま、鈴香の婚約指輪は、麗と買ったように、見える…?

鈴香さん。

…ん?

俺ね、誰にも、話したことないこと、あって。

…。私は、知りたくないよ。知ってしまったら、知らない状態には、もう戻れないもの。何かを打ち明けるって、私、一方的で、暴力的なことだと思ってるよ。

…。

私にしか、話せないこと?

たぶん。

私は、知ったら、何か変わる?

きっとね。でも、変わらないことを願ってる。あのね、俺…。

麗は黙り込んで、ウィスキーをひと舐めした。鈴香は、チェイサーを頼もうと思っていた。けれど、やめた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。