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春を謳う鯨 ㊴

◆◇◇◇ ㊳ ◇◇◇◆

不意に麗は黙り、前のめりになっていた上体を、すっと引いた。

モンブランのお客様。

両方、真ん中に置いといてください。と…言って、店員が下がると麗は、鈴香に向かって、微笑んだ。

鈴香さんどっちが好き? あ、ふたつとも半分こする? それとも、どっちも食べる?

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鈴香は不機嫌そうに黙り込んでみせながら、ほんの少しだけ、チーズケーキの皿をこちらへ寄せた。それを見た麗は、コーヒーカップを脇へ押しやって、自分の前へモンブランの皿を引き寄せた。

強引はさ…必死さの、裏返しだよ。うーん、どうしようかな…じゃ、たったいまから、鈴香さんの好みに合わせるように、頑張るのは? 俺、自分にこだわんないの。

好みなんて…。

どんどん、教えてね。もう結構覚えたよ。モンブランかチーズケーキかならチーズケーキ、でしょ。コーヒーはブラックで、好きな色のひとつはきっと、ネイビー。でもそんな風に決めつけられるのはたぶん嫌いで、気分で選ぶ余地を残しておきたい。付き合う人には好き好き言われたいほう…だよね? 新品のもの使うのが好きで…派手なオシャレは苦手か、嫌い…少なくとも日頃はしない。甘えられるのはそれほど嫌いじゃないけど、外ではリードされたい。婚約者さんに言いにくい秘密がいま、ひとつできた。…増えた、かな。

麗ははっとしたような顔を鈴香に向けてから、微笑んだ。

「おちゃらける」のは、鈴香さんが気持ちを許してからがいい。ね。

鈴香は、コーヒーカップに手をのばしかけ、そんな自分に気づいて、引っ込めた。畳み掛けるような麗の口調は、鈴香には馴染みが…あった、楢崎くんも時々、こうなる…矢継ぎばやで、自分のことが話題になっているのに、ついていけなくて、きちんと応対できない…。違う。言われていることはどれも曖昧で、誰にでも当てはまるような、簡単なことだ。麗はこんなことばかりして遊び暮らしているだけかもしれないし…でもなんとなく、慣れているというよりは、頭が回る感じはする、もしかしたら現実の人間をボードゲーム感覚で動かすのが、好きなのかもしれない。いずれにせよ、知り合ってしまった以上、問題が生じないように別れる必要がある。名刺まで渡してしまった…悪用は、されなさそうだけれど…迂闊だった。どうすれば…?

付き合うとか、付き合わないとかいうことが話に出てくるってことは…鈴香さんは、鈴香さんだけのほうがいいの? 鈴香さんは、俺のこと、独占してみたい?

そんなこと…。

いいよ。好きな人は、鈴香さんだけね。あと、なにが足りないの? 俺のこと好きになる理由? 鈴香さんはどんな時に人を好きになるの?

そんなの、わかんないよ…。

ふうん…? じゃ、俺のこと好きじゃないかどうかも、わかんない?

あのね…。

まだ、わかんないよね…?

…。わかんない、かな…。

畳み掛けられるまま、息を継ぐような気分でうっかり、そんなことを…呟いてしまった、まるで…流砂へ、足を踏み入れたようだった。自分の反応のせいで、飲み込まれるように、取り返しがつかなくなってゆく。事態に、気持ちが立ちつくしてしまっていた。

これでは…だめだ、とにかく、何が起きていて、どんな選択肢があって、鈴香には何ができるのか…考えなければ…。

俺は鈴香さんが好き。この短時間でもいっぱい、わかることあった。確信した。絶対に好きだし、こんなの、これからどんどん、好きになるよ。こんなこと自分に起きるなんて思ってなかった。…ほんとに。好きです。よろしくお願いします。

店員が、興味を持ち始めているらしかった。いたたまれなくなって、指を組んで、俯いた。…だめだ。鈴香は、顔をあげた。

私には、心に決めた人がいるんだよ。浮気は、絶対にしないの。…わかって。君を否定してるんじゃないよ、ただただ、無理なんだよ。無理っていうより…単純に、不可能なの。君だからだめなんじゃなくて、…ねえ、わからないかもしれないけど、君じゃなくても、だめなの。なんとも思わないんじゃない。なんとも、思えないんだよ。

…。

話は、これで終わり、ね。私には他に、言えることも、できることもない。気持ちは、嬉しかったよ。ありがとう。

麗の表情が硬くなったのが、見て取れた。鈴香は…もう、言ったとおりだ、他に言うことなんてない、鈴香自身、真っ直ぐに言葉が出てきた自分に、安心していた。よかった…鈴香の心は…もともとそうだ、決まっている…。

鈴香は、背もたれに立てかけていた通勤鞄を手に取り、膝の上に乗せて、財布を出そうとした。

待って。現実には…俺といま、会ってるよね。鈴香さんはどこから浮気だと思うの?

それは、…。そんなの、どうでもいいでしょう。この文脈で君に会ってたら、浮気だよ。だから帰るの。

ねえ、お願いだから。待って。俺まだ、誤解があると思ってる。

鈴香は唇を噛んだ。鈴香はここで、きちんと、立ち去らなければならない、のに…。

嘘ついたの…もしかしてすごく、ダメだった? あのね、自分ではもっと…黙っとけると思ったんだよ、だって、来るまでの時間で鈴香さんの会社のこと、しっかり調べて、エントリーシートも、慌ててだけど何社かダウンロードして、ちゃんと下書きした。それに…俺がこんなだからって、いってもさ…鈴香さん、心配になるくらい、ちょろいんだもん。

私は。…君が困ってると…思ったから…。

麗は、…そうだ、この子はこの子で、鈴香の知らない時間を泳いで来て、いま、鈴香には測り知れない何かを考えながら、ここにいる…考えの読めない、寂しそうな眼差しになって、力なく、微笑んだ。

やっぱり俺。どんなにうまくいっても、好きな人に嘘つくなんて…できないよ。それで見てもらっても、何にも嬉しくない。もう二度と、しない。ごめんなさい。

…。

鈴香は、通勤鞄を抱きしめた。熱くもないコーヒーと、何のためにあるのかわからないケーキが、ふたりのあいだに置かれてあった。麗が種明かしをしなければ今頃、鈴香が先輩風を吹かしながら注文して、話の合間にぺろりと、食べ終わっていただろう…現実というのはどうして、…現実というのは、こんなに、わかりやすく中途半端で…こんなに簡単なのに、絶対と言っていいほど、真っ直ぐには、進まない…。

鈴香さんは、1対1で会う異性の友達いる?

…いるけど、背景が全然違う。

ね、てことは、やっぱり、恋愛じゃなかったら、会える? 鈴香さんの定義してる友人知人の枠の中に入ってれば、会えるの?

…そんな…。

あー。会う人の話、報告しないとだめ…なやつか…。

違う、そこまで束縛ないけど…私の気持ちの問題だよ。

恋愛のカテゴリに入りそうってこと?

それ以外のどこかには、入りそうもない。

そのせいだなんて、やだよ。「年下の友達」は? あり。だよね?

…。ほんとに…なんなの…? 君みたいな子が、そこまでこだわるような相手じゃ、ないよ…?

相手だよ。たったいま、崖から飛び降りる思いで告白、済ませたとこじゃん。手汗なんて…久しぶりだよ、ぶわってくるんだもん、リアルに、びびった…。

そうか…それでさっき、膝を触って…鈴香はそんなふうには考えていなかった…。鈴香は、心の中でいったん、呼吸を整えた。麗はもしかしたら、鈴香が考えるよりずっと、素朴な…赤ちゃんみたいだと思った、あの直感が実は、正しいのだとしたら…? もしかしたら、あるいは器用すぎて、できることとしたいことの調節が、できていないのかもしれない…。赤ちゃんみたい。印刷店の前で抱いたあの気持ちが、胸をよぎった。「助けてあげられるなら、助けてあげたいな」…この子は、そうか、まだ、子どもなんだ…。

あ。だから待って待って。待って。こだわるっていっても、邪魔して、嫌われたいわけじゃないよ? 俺は、付き合えないなら付き合えないなりに、好きでいたいだけ。

…。分かんないよ、分かるわけない。わけが、分からない。なんなの? いつかは…落ちるかもっていうのを、楽しみたいの? 恋愛ってことだよね?

恋愛ってなに?

…ふざけないで。

ふざけてないよ。鈴香さんの恋愛ってなんなのか、興味あるってこと。ていうか…落ちるって…。

なにそれかわいい。馬鹿みたい。と、麗はくすりと笑った。

あのさ…言ったよ俺、自分にこだわり、ないんだってば。愉快犯じゃあるまいし、自分の楽しみのためだけに人と何かするって発想は俺、ないよ。…だいたい、落ちるって、言いかた悪くない? なんか、痛そう。鈴香さんは、「落ち」たいの?

そんなわけない。

じゃあ落ちなければ、いいんじゃないの? 落ちそうなの?

まさか。

麗は脚を組みかけたところで、テーブルに脛が当たって、やめたようだった。鎌倉へ行った日、空いていたボックス席に入って、日本仕様ってやり場がないんだよね長いから、と、楢崎くんがにやにやしていたのを、鈴香は思い出していた。向かい合わせに重ねた膝の、温かさ…ミナガワの明るい、優しい頬、佐竹さんの、静まりかえったような背中…そう、鈴香はもう、たくさんだ…。

あのね。君がもし…私のこと好き、だと、思うなら…困らせないでほしい。私はもう、他の誰とも、恋愛はしないの。もう「いまはしない」じゃ、ないの。ずっと…ずっと、ずっと、しないんだよ…。

ふたりとも、黙った。麗はモンブランを掬って、すい、と食べた。鈴香も…もし、通勤鞄を抱えていなければ、つられて食べていたかも知れない。けれど…。

ほんとに、…鈴香さんにとっては、恋愛じゃなくていいんだよ。

…。

俺はやりたいんでもないし、手に入れたいんでもないし、振り向かせたいんでもないの。会いたいんだ。会ってたい。今日また会えて…指輪にはさすがに、まあそうだよねって、がっかりしたけど…やっぱり、好きなんだな俺、って、思って、びっくりして、困った。だって、このままなんにもないなんて、そんなの、無理だよ。俺は俺で、無理。ね…? 俺、鈴香さんのこと好きで、だからこれからどんどん、鈴香さんのこと知りたくて、できれば、鈴香さんにどんな形でもいい、好きだと思ってほしいの。それはね、恋愛の好きじゃなくても、いいんだよ。やったら鈴香さんが好きになれないならやらないし、恋愛じゃだめなら鈴香さんには恋愛じゃなくてもいい。なんでも鈴香さんに合わせるから、俺に時間、ほしい。ください。ね。

麗がぽつぽつと話すあいだ、鈴香は麗を、じっと見つめていた。麗も、目を逸らさずに、鈴香を見返していた。学生証はたぶん…本物だっただろう、けれどそれ以外はなにひとつ、信用しようがない。けれど…プロフィールや会社のサイトは、異様に無骨で…いかにも真面目で不器用な学生らしく、地味すぎたし…よく見れば、半ば開かれたまま足元に置かれた、使い込んだ印象のリュックには、ノートパソコンと、付箋がはみ出した分厚い大判本が二冊、入っていて、その隙間に突っ込むように、印刷店のあの緑のエプロンが、丸め入れられている。鈴香は…。

…。

ねえ、鈴香さんは金目のもの好き? いろんなもの、贈られるの?

…なんにも。もらわないよ。なんにもしてあげない、こんな、…私、残念なくらい、普通の人だもん。指輪は…それで、浮かれて付けてるんだから…。急に…なに?

麗はフォークを持ったまま、鈴香の右手をゆびさした。

握りしめてるから。何本も跡、ついてる。婚約者さんからの、プレゼント?


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。