見出し画像

春を謳う鯨 ㉚

◆◇◇◇ ㉙ ◇◇◇◆

きっと、君を守るよ。

鈴香は佐竹さんの言葉を思い出した。もう何年も前のことだ。結局、ブレスレットのことを鈴香に訊いてきたのは、楢崎くんと、ミナガワだけだった。ふたりとも、鈴香が大事にしているそれを、大事にしてくれて、鈴香は、それで…。

きっと、君を、守るよ…。

鈴香はミナガワを見た。ミナガワは、目が合うと、微笑んだ。

本当に…。

ん…?

私、ミナガワのこと、こんな形でも、好きで、いていいの…?

:1HfOUTLINE

◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆

---------------------------------

ミナガワは微笑みを張り付かせたまま、微動だにしなかった。まつげの瞬く音が聞こえそうなほど、ミナガワは蜂の羽ばたきのように、瞬いた。唇がかすかに動いては、開きかけたまま止まり、また結ばれた。

鈴香の左手を取った右手に、ミナガワは力を込めた。

鈴香、…あのね。

うん。

私、ずっと…こんな日は、来ないと思ってた。こんなふうに、手を繋いでいることだって、そんなことがあったら奇跡だって思ってたし、ありえないって思いながらも、うっすら、期待してる自分がすごく、恥ずかしかったんだ。友達でいいと思ってたし、こういうの何にも、ないまま、ただ鈴香に会えて、鈴香が友達だって思ってくれるだけで幸せなんだからって、一生、片想い、してるつもりだった。

ミナガワ、そんな…。

鈴香。どんな形かなんて、気になるわけないよ。どんな形でも…。鈴香…ね、鈴香。…好きに、なってくれて…ありがとう…。

ミナガワ…。

ミナガワは握りしめていた手を離し、箸を取った。

話してくれて、嬉しいよ。鈴香が黙ってくれててもきっと、好きな気持ちに変わりはないけど、話してくれる鈴香を見てね、ああやっぱり、鈴香だな、大好きだなって、思った…。食べて、帰ろ。鈴香はお酒、おかわりしたら?

メニューを渡して、ミナガワは鈴香に笑いかけた。

ベルを鳴らして、シンデレラをふたつ、追加した。デザートはミナガワが準備してくれていたから、食事だけの注文にしていたのだけれど、会計を呼んだ時に上がってきたマスターらしき腰エプロン姿の男性が、エスプレッソは苦手ではないかと尋ね、ふたりが首を振ると、銀皿に伏せて置いた伝票に、小さなカエルの文鎮を乗せながら、人懐こそうな笑顔を向けた。

実は昨日マシンを、入れたとこなんですよ。今日のメイン、少し、脂っこくなかったかな。サービスで、もしよければと思って…あ、お時間、大丈夫ですか。

ミナガワは鈴香を見た。鈴香はミナガワに頷いて、男性には、全然、美味しかったですでも、せっかくだから…と、微笑み返した。

男性がエスプレッソを淹れに降りるのを見送りながら、前もサービスしてもらってたよね、なんだか、続くね? と、小声で話しかけたミナガワに、鈴香は口角を上げて見せた。

ゆっくり、食べてたから、気を遣わせちゃったのかな。もしかしたら、ふたりでいるとラッキーなことが、起こりやすいのかも、ね?

エスプレッソには、ハーシーのチョコレートが、添えられていた。





玄関に入るなり、ミナガワは鈴香を抱きしめた。

少しだけ。

…。ミナガワ…?

少しだけ。このままでいて。私いまね、走ってるうちに、いまさら、ちょっと…ちょっとだけ、気持ちが、泣いちゃって、るから、鈴香に顔、見せたくないんだ。鈴香がまだ行かないって思ったら嬉しくて…でも、…でも、鈴香はちゃんと、決めたんだって、やっぱりちょっとは、寂しくて…気持ちが、ぐちゃぐちゃなんだ…すぐ、…バランス、取れるから、ほんの少しだけ…ほんの少しだけ、こうしていて…。

ミナガワ…。

あ、鈴香のこと大好きっていう、それは全然、ぐちゃぐちゃしてないからね…? むしろ、それだけははっきりしてて…だから、こんなにぐちゃぐちゃでも、揺らがないでいられる…。

暑くて、汗ばむくらいなのに、服越しに伝わるミナガワの体温は、あたたかくて、確かで、ずっと、感じていたかった。こういう、ひとつひとつを、鈴香はミナガワに、伝えたい、伝えたいと思いながら、言わないまま…ミナガワはそれを知らないまま、この一年を…それでも…? いま、ミナガワは、どんな気持ちで…? 初めてキスをしたあの夜にふとこぼれた、あの言葉が、薄暗く光を遮る一枚の紗のように、鈴香の脳裏に揺蕩っていた。

恋愛は、わからない。でも。

ミナガワが思うようななにかを、鈴香は、あげられないかもしれない、けれど…。

鈴香はミナガワの耳に自分の耳をぴったりと付けて、回した腕にふたりの体温が行き交うのを感じながら、ただ、待った。ミナガワの髪留めが見えた。前にランチで会った時と同じ、七宝風のあの髪留めだった。緑と紫の耳穴をした、魚の鱗のようなラメの白兎が、万華鏡のような不思議な彩りの月の前で、体を躍らせて、きらきらした黒い目でこちらをじっと、見ていた。

ミナガワは、もう一度強く、苦しいくらいに鈴香を抱きしめると、体を離した。鈴香の目元に軽く唇を押し当ててから、ありがとう、ね、大好きだよ、と、囁いた。サンダルを脱ぎ、鈴香に背を向けてリビングへ向かったミナガワは、リビングに入りかけたところで振り向いて、普段の調子で、鈴香に話しかけた。

アップルパイ、焼いてから出たの。ちょうど焼きあがってるよ。デザートにしよう? お湯沸かすあいだに紅茶、選んでね。一応、私が普段飲んでるやつでよかったら、ハーブティーも、あるよ。お花はテーブルで、いいかな…鈴香のマカロンは…どうしよう、今でもタイミングいいし、夜のおやつでも、素敵だと思うけど…。

鈴香はミナガワに追いついて、ミナガワの手を握った。

うん、夜にしよ。冷蔵庫に入れとけばいいから。焼きたてなんて、贅沢だな、美味しそうな、匂い…。

キッチンから焼けた林檎と生地の、ねっとりと甘く、香ばしい匂いが漂ってきていた。ミナガワは、鈴香の手を持ち上げて、鈴香の指の背にその、たっぷりした、血色のよい唇をそっと、押し付けて、鈴香。今日の服、可愛いね。可愛い。と、いつもどおりの、艶めかしい余裕を潤うように含んだ表情で、にっこりと笑いかけた。


〉》》〉㉛  〉》》〉

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。