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春を謳う鯨 ㉖

◆◇◇◇ ㉕ ◇◇◇◆

鈴香は…せめて…口腔に残る苦味だけでも全部、洗い流そうと、吐けるだけ吐いて、口をゆすいで、ティッシュで口を拭った。

ティッシュを見て、鈴香は唇を噛んだ。

口紅とファンデーションは、もう全部、取れてしまっていた。

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鈴香がデンタルリンスで口をゆすいでいると、ユニットバスの入口まで来た楢崎くんが、鈴香に話しかけた。

気にしすぎじゃない? 別に、今から浮気相手とキスしに行くわけじゃないでしょ。

…嫉妬…? だったの? 友達の家に、泊まりに行くくらい…。今のは、ひどかったし、嫌いになりそうだから、やめてほしい。私はもっと、尊重されたいの。

自分の声が震えているのが、心底、疎ましかった。感情的な人間の言うことなんて、たとえまともなことを言っていたって、まともに、受け取られるわけがない…。楢崎くんを押しのけて部屋に戻った鈴香は、姿見の前に膝をついて、ファンデーションを塗り直した。部屋のドアの桟にもたれて腕を組んだ姿勢で、楢崎くんがこちらを見ているのが、鏡越しにに見えた。冷静になろうと努める心を挫こうとするかのように、パフを持つ指先まで震えているのが、つらかった。

尊重してるよ。今日だって、泊まりに行かせてあげてる。

たっくん、…そんなのは…。

気分よく泊まりに行かせるほど、俺はお人好しじゃないってことだよ。俺には俺で尊重されたい部分があって、鈴香はそれを、踏みにじってる。それくらいは、わかってるはずだ。

…。…なんのこと? …わかるわけないよ。私はたっくんを傷つけたいなんて思ったことは、一度もない。

守りたいと思ったことも、ないだろ。

鈴香ははっとして、鏡越しに楢崎くんを見つめた。楢崎くんは気まずそうに、目をそらした。

たっくんが…どうこう、言うことじゃないし、私に女友達がいるのは、人として、普通のことでしょ。

…。人として普通、ね。そういうことは、きちんと人になってから言いなよ。

どういう意味?

はっきり言わないと、わからないの? 鈴香は友達を作るには、幼稚すぎるって、言ってるんだ。どうせまた、もらってばっかりで、感謝のかけらもみせてないんだろ。

…そんなこと…。

そんなことだ。鈴香が選ぶ花やお菓子なんて、陳腐で、遅れてるに決まってる。俺が皆川さんより素直なだけで、鈴香のセンスがガキっぽくてダサいって、事実は、変えようがないよ。害こそあれ、利はないね。礼になるわけがない。

…。

皆川さんも皆川さんだしさ。聞いてるだけの俺にだって、わかるよ? 皆川さんが欲しいのはモノじゃないし、もっと言えば、鈴香でもない。皆川さんはただ、好意をぶつける対象が欲しいだけだ。一人が好きなくせに一人が寂しくて、誰かといたいけど、賢くて人間が怖いから、鈴香みたいな中身の空っぽな泥人形に惹かれるわけだし、様子からして皆川さん自身にもきっと、それがわかってる。向こうはちゃんと線引きできてて、鈴香だけが無防備に、じゃれついてるんだよ。他にも同じような友達いるんじゃなければ、忙しくて他に友達作れないだけで、「鈴香がいい」んじゃない、「鈴香でいい」、だけだ。鈴香に会えてよかった、なんて、呪文みたいに唱えてるようじゃね…そういう人って、人間関係に受け身だから、飽きた瞬間に同じ言葉を振りかざして、無自覚にばっさり切ってくるよ。鈴香はもう少し、冷静になるべきだ。

…冷静、だよ。いまの、たっくんよりはね。

…。

ねえ。私はいつも、冷静だよ。

楢崎くんは、なにかを言いかけて、やめた。何なのかは、鈴香にはわからなかった。

…鈴香は、…鈴香は鈴香で、くそ真面目だから、勘違いして受け取ってる「好き」に、ダサいなりに「好き」で返そうとして、結局なんにもあげれないまま、行き違って、わちゃわちゃしてるだけだし…見苦しい。見苦しいんだよ。俺はそういう、結果を伴わない関係は、嫌いだ。

言葉を継ぐのをやめたらしい楢崎くんを、鈴香は見つめた。メイク道具を取り出して開けたままになっている、鈴香の鞄のなかに、楢崎くんは焦点の合わない視線を、落としていた。

それで、全部? 会ったこともないくせに、好き勝手に言わないで。皆川さんといる私がどんな私かは、たっくんにはなんにも、関係ないよ。…こんなこと、私、言いたくないんだよ、なんで、楽しんでおいでって、笑顔で送り出せないの…?

楢崎くんは一瞬、険しい顔になってから、すっと、いつもの不機嫌顔に戻り、組んでいる腕を引き寄せて、少し落とした声音で、鈴香に答えた。

俺が、…そこそこ賢いっていうこと、鈴香は、忘れがちだよね。鈴香は俺には、心がないみたいな言いかたするけど…心があるのと、心を見せるのは、全く別の話だ。

…。

ないわけ、ないだろ。俺だって30年近く、しかも鈴香よりずっと人に接して、生きてきてる。ほんと、鈴香って…愚かしいって、こういう時に、使うんだよ。俺は鈴香を、尊重してる。鈴香の言う「尊重」は表面的すぎて、俺には全然響かないね。そんな上っ面のおままごと、尊重する価値がそもそもない。

…。

色々言ったけど。鈴香に自分から近づきたがる人間に、普通の好意を持ってる奴なんてない。俺で…懲りて、わかってるだろ。それには恋愛関係も友人関係もない。ちゃんと疑って、壁つくっとかないと、傷つくよ。

…。

鈴香は、楢崎くんと言い合ううちに自分の手が止まっていたことに気づいた。

もともと、アイカラーはすこしゴールドを乗せるだけで、マスカラは使わない。目元に、チークを置いた。鈴香は、黙り込んだ楢崎くんには、同じように、黙り込んで答えずに、口紅を引き直してメイク道具をしまって、鞄に入れ、玄関に出た。

うん。我ながら、いい嫌がらせをしたって、自分で痺れるなぁ。ねえ鈴香、顔、近づけすぎると…胃に残ってるから、言われるかもよ。気をつけなよ。

サンダルのベルトを掛ける背中へ投げられた声に、答えようと吸った息をいったん止めて、鈴香は細く長く、浅く、息を吐いた。あと、少し、あと少しで、出られる…。自分の、うちなのに、と、鈴香はうっすらと、自嘲的な気分になった。

写真、送ろうか? と、鈴香は訊いた。要らないよ。俺といない鈴香の写真なんて、見ても思うことなんか、ない。と、…楢崎くんは返してから、本題を忘れていたかのような口調で、ま、俺もすっきりしたことだし、一人なら一人で、することには困らないからね、と言い直した。

ちょうど、自転車のメンテかけに行きたかったんだ。ついでに乗り心地も確かめたいだろ、聴きたいレコードも、溜まってる。

楢崎くんは肩をすくめてみせた。自分ちに帰ったら鈴香の大好きな新聞、舐めるように読んどかないといけないし。土日はコラムが多いから、考えごとが増えて困るんだよね。

ひとりぼっちなんだね。

鈴香のせいでね。…楽しんでくれば。俺だって、友達に会いにいくって言われたら、邪魔しようがない。

…。じゃあ。

鈴香が外へ出てエレベーターホールへ向かおうとすると、背中から、楢崎くんが鍵をかける音が聞こえてきた。鈴香は時計を見て、ツイートを確認しようとしたけれど、ログインしている最中にエレベーターが来て、電波が切れてしまった。

1階まで、乗ってくる人はいなかった。

鈴香は加速を圧力で感じながら、エレベーターが1階につくのを、ぐったりした気分で、待った。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。