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春を謳う鯨 ㊸

◆◇◇◇ ㊷ ◇◇◇◆

鈴香さん。

…ん?

俺ね、誰にも、話したことないこと、あって。

…。私は、知りたくないよ。知ってしまったら、知らない状態には、もう戻れないもの。何かを打ち明けるって、私、一方的で、暴力的なことだと思ってるよ。

…。

私にしか、話せないこと?

たぶん。

私は、知ったら、何か変わる?

きっとね。でも、変わらないことを願ってる。あのね、俺…。

麗は黙り込んで、ウィスキーをひと舐めした。鈴香は、チェイサーを頼もうと思っていた。けれど、やめた。

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麗は唇に、人差し指を添わせて、しばらく考え込む様子を見せていた。鈴香は声をかけずに、麗を見つめた。二重だと思っていた、この子、奥二重なんだな…そんなことにはすぐ気がつきそうなのに、見上げていたせいで、気づかなかったのだろうか…。

麗はソファに座り直して、腿の上でふんわりと、指を組んだ。

子どもが…いるかもしれないんだ。4才の、男の子。

え、…。

でも会えない。なんて言っていいか、わかんないから。

…。

高校2年の時にね、本気で好きになった人がいたんだけど、人妻だったの。俺ね、その人がいいよって言って、それに何ヶ月も大丈夫だったから、全然、そのまましてて…でもね寂しかったんだ、薬、飲み忘れたりしないかな、零点零何パーでも「うっかり」があって、その人のこと、かっさらえたらいいのにって、ずっと思ってて。その人のことすごく好きで、すごく大事で、その人の生活掻き回すなんてだめだと思って色々、我慢したよ。でもね、だって高校生だし、その人のこと、独占するきっかけが、欲しかった。そんなことになったらどうなるか全然想像つかなかったけど、どんなことがあっても一緒にいるって、思ってたんだ。よくほら、ドラマとかであるでしょう、赤ちゃんできちゃったって、打ち明けられるやつ。俺ね、そんなんになったら絶対、ものすごい笑顔で抱きしめて、絶対、結婚しようって言うぞって、わけわかんないよね、でも、妄想っていうか…。

…。

まあ…妄想だった。俺が…考えてたことなんて結局、ほんと、妄想もいいとこで…妊娠したんだって、別れを切り出されたのは、俺だったんだよね。子ども、欲しかったんだよって、その人は俺に申し訳なさそうな顔して見せながら、なんだか幸せそうで…でもさ、だとしてもさ、できたらおかしいと思われるでしょって、俺、納得いかなかった。ずっと、もう長いこと、そういうのないって聞いてたから。そしたらね…そしたら…。

鈴香は、目を伏せて、飲みかけのチャーリーチャップリンに映る光を見つめた。こんな子に、…こんな、子どもに、そんな…。

旦那さんとも、やってたんだ。だから疑われないって…。だったら旦那さんの子どもかもしれないのにって俺、言った。その人は…その人が言ってたのは、旦那さんは…不妊症なはずだからって…。俺は旦那さんと血液型も一緒だし、よく似てるから、大丈夫だと思うって、その人は言った。万が一にでも、旦那さんのね、子どもかもしれないなら、それならそれでいいんだって、…それがいいんだって、言われた。俺は…結婚しようよって、…俺、まだ高校生だけどそんなの関係ないよって…関係ないわけないよね、だってさ、高校生だもん、でも俺、詰め寄った。

その人は…。

無理だって、…言ってたよ。俺といてもきっと、幸せになれないし、俺も、きっと幸せになれないから、だから無理だって。泣きながら…謝られたし、絶対に迷惑はかけないって言われた。…俺さ、謝ってほしいわけじゃ、なかったんだよ。迷惑だなんてひとっつも、思ってさえいなかったから、驚いたくらいだったし、むしろ迷惑なら、かけてほしかった。なんでこの人は…この人の心はなんで、こんなふうに決まってるんだろう、どうして、俺のいないこの人の世界が、ちゃんと回るんだろう、俺はいつから気付けてなかったんだろう、いままで、俺の好きな気持ち、どこに受け止められてたんだろうって…。

麗は、口を噤んだ。かと思うと、スタッフを呼んで、お水、ふたつください、と、頼んだ。大きな丸い氷の浮かんだグラスが、恭しげに運ばれてくるまで、麗は話さずにいて、鈴香も、一緒に黙って、外を眺めていた。

寄り道。…させちゃったけど、これからは真っ当に自分の人生、歩めって、言われたんだ。俺は自分の人生を、歩んでたのに、そう思ってるのは俺のほうだけだった…みたいだった。その人には自分の人生があって…その人にとってみれば、俺が寄り道だったんだなって…思うと、なんだか心が死んでくような、すごく暗い気持ちになった。なんかね…ああ、俺に迷惑かけたくないんじゃ、ないんだな、俺が、迷惑かけてんだ、って…。

…。

引きこもって受験勉強して…受かって東京来て…1年の秋休みに帰省した時、保育園に、見に行ってたのがばれて、話し合うことになって…旦那さんによく似てる気がするから、本当に俺の子じゃないのかもしれないってその人は言った。どっちでもいいはいいけど、やっぱり旦那さんの子どもだったら、嬉しいって…旦那さんになんて言ってるのかは、俺は、知らないよ。でも、…でも、もう、…。

麗は右手で左腕を抱いて、グラスの並んだテーブルに、視線を落とした。

「私たちのことは、ほっといてほしい」って…。その時はもう、泣きながらじゃなかった。ひたすら、目も合わせないで謝って、謝る以外のことはできないって言われた。絶対に迷惑はかけないから、忘れてほしいって、言われた。俺ね…大好きな人に、何させてんだろうって思って、自分が情けなくなって。俺、それで、やめた…やめちゃったんだ、もういいよ、じゃあ、なかったふりでもいいよ、って…。

もう…会ってないってこと?

うん。会わないよ。俺からはね。なにかに困ってさ、会いに来てくれないかなって、しばらくは思ってた、けど…でもね、…そういう人じゃないから、好きだったんだ。そういう人でも好きだったと思うけど、やっぱりね、そういう人じゃ、ないんだよ。俺ね、その人のこと、よくわかってると思ってて、たぶん実際、よくわかってて、だから、…だからよく、わかったんだよ、もう俺、だめなんだなって…。この人には俺じゃないって、この人は「わか」っちゃってるんだって、わかった。わかった「気がする」んなら、まだ、よかったけど。そっか…それだけは、いつもと同じだったな…俺はわかってて、で、わかるしか、なかった。

…。

忘れてほしいって…俺、自分が大人じゃないせいで、わかんないところがあるのかなって思ったりもした。東京に戻ってから、考えた。でも、何年経ってもやっぱりわかんないし…すっかり大人になっても、たぶん、わかんないよ。俺だけの問題なのかどうかさえ、わからない。俺は…忘れたほうがいいのかな、それとも、忘れないほうが、いいのかな…俺はね、たぶん、どっちも、できるんだ。自分が、ないから。ただ、どっちなのかが、決められないんだ。自分が、ないから…。

しばらくのあいだ、ふたりとも無言で、ときおり、グラスを手に取って、傾けて、鳴らした。鈴香は麗を…会ってから見つめなかったときなんてない…じっと、見つめた。こんな、生き物…。

私に、できること、ある?

あると思う?

ないと思う。

あるよ。いま、会ってくれてる。そこにいて、話を聞いてくれてる。

誰かに話したかったの?

そうだと思ってたけど、違ったんだと思う。知ってる人でも、知らない人でも、だめなんだ。あとさ、俺が、この人は好きだって、思える人じゃなきゃ…。鈴香さん、俺ね、鈴香さんのこと、やっぱり、好きだな…どうすればいい?

知らないよ。

俺も、わかんない。ふたりで、考えようよ。

考えたって…何も出てきやしない、それは、考えることじゃなくて、決めることなのだと、鈴香は思った。いつかの楢崎くんの言葉が不意に、頭をよぎった。

いっつも、何も見ずに、何も決めずに、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ…。

鈴香は…鈴香は、どうすれば…?

ね、その人って、もしかして…。

さっき話した人だよ。デザイナー。

…。

鈴香は…次の質問は、考えていなかった。

何才? 名前は? どんな人? 出会いは? どのくらいの期間、何回、…それってつまり、愛人をしていたの? いつもどこで会っていた? どんなセックスをするの? その人は、…悦んでいた?

…聞いたところで、なんになる?

鈴香は何も、尋ねない。話したいことを、話したいように、話せばいい…。

鈴香の目に映るのは、話しているその、姿だけだ。

鈴香の耳に響くのは、話しているその、声だけだ。

麗は相変わらず、微笑を張り付かせたような、寂しげな表情を残してはいるものの、ほんの少し、すっきりしたような面持ちで、鈴香のほうを見た。

鈴香さんにはそういう秘密、ないの?


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。