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春を謳う鯨 ⑤

◆◇◇◇ ④ ◇◇◇◆

楢崎くんはスープのお代わりを出したあと、鈴香の肩をぐっと掴んで、アクティブレストだよ、飯も決めてあるし、大船に乗ったつもりでね、と、自分はもう座らずに、済んだ皿を下げ始めた。
(…)
雨が止むと、柔らかい日当たりだけが自慢の、鈴香の小さな1DKはまるで、鳥籠のように感じられた。


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楢崎くんとの出会い? 鈴香は彼氏との出会いの話は、女の子たちには何回もしてきた。卒業式のあと、同ゼミの男の子から、同窓生で、サークルの友達で、大手証券会社にアクチュアリーで就職する男の子が、鈴香に会いたがっているから、会ってあげてほしいと言われた。一番はじめはその同級生と一緒に、ボルダリングの体験レッスンを受けた。その日のうちに、次は二人きりで合う約束をした。初めてのデートは表参道で服と食器を買って、明治神宮にお参りして、トルコ料理を食べて帰った。2ヶ月で3回デートをして、4回目のデートの夜キスをして、5回目のデートの夜、楢崎くんはパークタワー東京の、東京タワーが間近に見える部屋を取っていた。

鈴香は、夢中になった。

楢崎くんは大きな病院の院長の三男だった。楢崎くんは全国模試で2位を取ったことがあった。楢崎くんは中学時代をオーストラリアで過ごしていて、その都合で、鈴香と同じ学年だけれど1才年上だった。楢崎くんはバーでバイトをしていたことがあった。楢崎くんは簡単な手品ができて、一席だけだけれど通しで落語が打てた。楢崎くんは箸の持ち方が綺麗で、魚を食べると骨しか残らなかった。楢崎くんの15畳の1LDKはホテルみたいに片付いていて、楢崎くんのクローゼットには着ない服は入っていなくて、まな板は、ほとんど毎日使っているのに、真っ白だった。楢崎くんは欲しいものしか買わなかったし、欲しければきちんと吟味して、必ず気分良く使えるもの、使い続けられるものを買った。楢崎くんの趣味はカメラとロードバイクと作曲だった。楢崎くんはメールの受信フォルダが常に空で、読んでいないメルマガが来ることがなかった。楢崎くんは自分と同じ時代を生きて社会をよりよくしようとしている人たちを応援するために、毎月一定額をクラウドファンディングに投じていた。楢崎くんは「製造大手の特許管理部門にいる、同じ大学出身でひとつ下の彼女」のことを職場で公言していて、バレンタインチョコは受け取りはしても、たとえ義理チョコでも、自分では絶対に食べなかった。楢崎くんは男友達のあいだではよく幹事を引き受けていた。楢崎くんは満員電車では鈴香を、網棚に手をついて守った。楢崎くんはジーンズの裾を切ったことがなかった。楢崎くんの体脂肪率は9%だった。楢崎くんは、楢崎くんは…鈴香は、楢崎くんが自分の話を自分からはほとんどしないように、楢崎くんの詳しい話を、人にはあまりしない。

相手を、不安で、不快な気持ちにさせるからだ。




楢崎くんと外にいるとき、鈴香は何もしなくていい。何も言わなくていいし、何も決めなくていい。電車は乗るだけ、中華料理店では食べるだけ、道路は風景を見て歩くだけ、ジムでは走るだけ、お風呂は入るだけ…することがなくなったら、黙って自分の手入れをするか、ただぼんやり、座っていればいい。なにか言うとうるさがられるし、なにかするとけなされるから、鈴香はだんだん、人形のようになってしまった。

そう…ちょっとした話は、楢崎くんには「しなくていい」。鈴香の気分を、楢崎くんは「知らなくていい」。鈴香が嫌がっているかどうかは、楢崎くんには「関係ない」。鈴香の感想には、楢崎くんは「興味がない」。

楢崎くんといると、なんとなく、自分がどんどん、死んでいくような気がして、時々…昨日の夜みたいに、漠然と、まだ死にたくない、と感じて、息をしたい、ひとりになりたい、自分でいることが当たり前な場所に、好きなことは話して分かち合うのが普通な場所に、批判されない場所に、採点されない場所に行きたい、と渇望して、どうしようもなく、外へ出る。もう付き合いきれないと思って、楢崎くんが「別れよう」と言う理由を作ろうとしてみたりする。

けれど、…昨日もそうだった…少し距離をとって、楢崎くんを外から見つめ直すと、鈴香の気持ちはすぐ、揺れてしまう。

楢崎くんは鈴香の世界を、鈴香を取り巻く色々なものごとを、きちんと整備してくれている。それはまるで、お人形遊びをする女の子が一生懸命、お人形の世話をするような仕方なのかもしれない…けれど、それでも…鈴香は社会に出て、他の大人とちょっとご飯を食べたり、ちょっと買い物をしたり、ちょっと並んで歩いたりすることが重なるにつれ、鈴香が楢崎くんといて普通だと思う、色々なことは「普通」、男の人が大好きな人にしかしないような特別な気遣いだということを、知った。そして、そんな気遣いをしたくても、きちんと、しかもずっと、できる人はとても…とても…少ない、ということを、十分すぎるほど、思い知らされた。楢崎くんの気難しい性格や完璧主義なところに、鈴香はたくさん振り回されて、付き合って3年目くらいからは定期的に、鈴香が泣いて、楢崎くんが怒って、鈴香がいなくなって、楢崎くんが探しに来る、そんな展開がずっと、続いてきた。楢崎くんのひどい口ぶりや、共感のかけらもないセックスが、耐えられないと思うほど辛い時もある。けれど…。振り返れば、答えは簡単だ。

楢崎くんも、鈴香に、夢中だった。

それは、今も…? これからも…?

ううん、だとしても、このまま、自分を殺して楢崎くんのお人形遊びに付き合って、人生の大事な時期を費やすことは、鈴香が自分を大切にして生きることに、なるだろうか? 鈴香が学生の頃に28の自分に夢見ていたのは、人を尊重することを知っている、優しくてすごくいいセックスのできる、賢くて綺麗な人との、静かで、穏やかで、対話のある生活だった。楢崎くんは「賢くて綺麗」以外の何も、満たしていない。楢崎くんはいつも苛々していて、鈴香を嫌な気分にさせる。楢崎くんは鈴香の気持ちを大事にしてくれない。楢崎くんは…楢崎くんは、そうだ、思えば、男の人についての鈴香の優しい夢を、めちゃくちゃにしてしまった…。

でも…?

鈴香は奏太の部屋を思い出した。高校や大学の、特に心を動かされなかったいくつかの恋愛が、鈴香の頭をよぎった。

でも、そんな人、この世にいるの? あれが現実なんだとしたら、鈴香は一番、夢に近い恋愛をいま、しているんじゃないだろうか…?

バスローブの胸元を手繰り寄せて、夜景の見えるソファの上に体育座りした鈴香は、設計された通りに、海越しの夜景を眺めた。チューハイの結露がときどき、鈴香の膝を濡らして、鈴香はその度に、バスローブでそれを拭った。楢崎くんが缶ビールを持って、鈴香の右隣に座った。

…おんなじ、ビールでよかったのに。

背伸びして。ビールだと残すだろ。まだまだお子様舌のくせに。

…。

二人で夜景を眺めた。船の光が、暗い海の向こうを、ゆっくり横切っていった。何分くらいだったろう、楢崎くんは立ち上がって、戻ってきて、二缶目のプルトップを倒してから、鈴香のほうを見ないで、鈴香に話しかけた。

昨日、独りになってさ。

うん…。

俺、鈴香に連絡しちゃいけないと思って、ちゃんと、ほっといただろ。

うん…まあ…来ちゃってたけどね…?

…。部屋、借りた分は、体で返した。飯も作ったよ。

私は。…ああいうの、好きじゃないよ…。ご飯は、嬉しかったけど…。

楢崎くんはまたあの、難しい眼差しをちらりと、鈴香に向けて、すぐに夜景へ視線を戻した。

横顔は…そうだった、鈴香は、映画館やバーで見る楢崎くんのこの横顔が、好きだった、考え深げで、なんとなく寂しそうで、ぽってりした唇と小さな耳が少し女性的な印象の、それでいてきりっとした、流麗な感じの、頰の綺麗な横顔…。

鈴香は全然、俺のこと分かってないよ。それは半分、俺自身のせいかもしれないけど…。

ね、いつも…たっくんはそういうところ、傲慢だし、稚いところある。結局、他人なんだよ。分かり合おうとしない限り、分かったりしない。

別に、鈴香に分かってほしいわけじゃない。鈴香の理解が浅いっていう事実を、単に指摘してるだけだ。

…。

この際はっきり、言っておくけど。鈴香のちまちました小言は、俺は心の底から嫌いだし、鈴香が鬱陶しく気にしてるようなあれやこれやは、俺には本当にどうでもいい、瑣末なことだ。鈴香の理解がその程度のレベルなんだと思って、俺はいつも、悲しいんだよ。俺は、分かってる。よく分かってるだろ? だって…俺は、曲がりなりにも…。

楢崎くんは言い淀んで、結局、最後まで言葉を継がなかった。鈴香もなにも言わずに、また、窓の外を見た。

鈴香がごちゃごちゃ言うから、なんの話をしてるのか、分かんなくなったじゃないか。鈴香に意見は求めてない。黙ってて。

…。

独りになってさ。

ああ、昨日の話ね。まだ、してたんだ…?

…。独りになって、考えて、…俺、自分でも、びっくりしたんだ。

…?

びっくりした。とても。傷ついたって、言ってもいいかもしれない。

…なんの話…?

鈴香がいなくなったらなんて、簡単なはずなんだ。代わりはいくらでもいる。鈴香くらいの女なら、探さなくてもそれなりにいて、俺が手を差し伸べるのを、怠惰に待ってるだろう。鈴香みたいにね。鈴香には悪いけど、これはまぎれもない事実だ。

…。

鈴香がいなくても俺は生きていけると、思ってた。思ってたというか、そういう自分を、想像してた。けど、…昨日、初めて、現実的に考えたんだ。鈴香がもしこんな風に、いなかったらって、考えると…。

…。

俺は、誰と生きていけばいいか、わからなかった。

楢崎くんは相変わらず、窓の外を見ていて、話す合間合間にはせわしなく、ビールを飲んでいた。

鈴香はふと、楢崎くんが鈴香に、「俺たち、彼氏彼女ってことでいいんだよね」と訊いてきた5年前のことを思い出した。楢崎くんは、大切な話をしようとしているのだ、と気付いて、チューハイでふわふわしていた鈴香の酔いが、一気に覚めた。

分かってほしいのは…こんな…俺にはこんなことは、屈辱的な、息苦しいことなんだ。ありえないと思った。でも、認めようとしてる。認めるしかないと、思ったから。

え…。たっくん…?

楢崎くんは飲み終わった缶をかたり、とサイドテーブルに置いて、夜景を見つめたまま、膝のバスローブを抑えていた鈴香の右手に、そっと、自分の左手を重ねた。

鈴香に残る選択肢が俺以外にはないように、俺は精一杯のことをすることに決めた。明日起きたら、戸籍謄本を取り寄せる書類を書いて、指輪を買いに行こう。

鈴香はチューハイの缶を傾けた。もう一滴も残っていなかったけれど、鈴香は残りを飲み干すふりをしてから、自分も缶を、サイドテーブルに置いた。

海越しの夜景は、鈴香と楢崎くんのいるこの部屋で何が起こっているのかなんて、知るよしもない風情で、相変わらず夜に浮かび、煌めいていた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。