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春を謳う鯨 ㊲


◆◇◇◇ ㊱ ◇◇◇◆

麗は、にこやかに、向かいのドトールでよく勉強、してます、と、頷いた。

鈴香は、懐かしさで優しい気分になって、微笑んだ。

頭を下げられながら別れて、道を曲がったところで、渡されたコピー紙と名刺をしまうついでにふと、名刺を裏返した。

見知らない株式会社の英字の社名と、「代表 北原 麗」の文字が並んでいた。

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鈴香は…戻ってから…強がりを言った手前、明日早めに来ることにして、なんとか18時半に仕事を切り上げた。なんかかっけー、と呟いた、麗の眼差しが思い出されて、息苦しかった。そう、いつもそうならきっと、格好いい…。駅前の交差点で信号を待っていると、向こうからウィンドブレーカを羽織ったリュック姿の麗が、手を振っているのが見えた。

仕事ってスーツなんですか?

ううん、今日は午前中アライアンスの…あ、共同研究先と、定例会があったから。日頃はもう少しカジュアルかな。事務系の人はみんなオフィスカジュアルで…開発系の部署の人は、思い思いだよ。といっても、半分以上は作業着かな…あ、IT関係の人が意外にね、制約ないはずなんだけど、全体的に地味なんだよね。地味っていうか、構わない感じ。お洒落な人も…いるけどね、もちろん。

ふうん。オフィスカジュアルかぁ。大人な響きすね。俺もなー…こだわんねーからなぁ…。

鈴香はさっと、隣を歩く麗を見た。エンボスの、臙脂色の丸首カットソーに、ダークベージュの丈短のスラックス、プーマの黒スニーカー…濃グレーのリュックと同じ色の、アンダーアーマーのウィンドブレーカ…。

ああ、…北原くん、派手な感じじゃないのになんか、目立つよね。面接なんかで、得だと思うなぁ。さっきも交差点ですぐ、わかった。

そう? よく言われますけど、それはそれで…こっそり悪いこと、できなくて困るんですよねー…。身なりも、なんかね、まあまあ気をつけないと、でかいぶん雰囲気、壊しやすいっつうか…。あ、…せっかくなんで名前で呼んでください。麗。北原より麗のほうが言いやすいし。あと俺も、緊張しすぎないんで、ありがたいです。

…。え…? あ、…うん…れい、って、読むんだね、珍しいね。名刺見て、思った…て、言われ慣れてるか…なんだか…初対面てこうなるの、私、苦手だなぁ…もっと、私たちだけで話すようなこと、あるはずなのにね…面倒だよね。

はは、たしかにそうかも。でも、万回繰り返してますからね、ないならないで不安かも。あれだ、アイデンティティクライシス。

麗くん、大げさ、と、笑いながら、先に階段を上がった鈴香がドアを開けようとすると、追いついた麗は後ろに立ったまま、鈴香越しに取手を押した。

ずっと…見てるね。気になる?

鈴香が尋ねると、麗は首を振って、少し、背筋を伸ばした。

や、結婚指輪が、ないんだなぁと思って。

買ってはあるけど、籍がまだなの。

最近決まったんですか?

うん、先々月かな。5年付き合ってる流れもあったけど…会社小さかったら、もっと遅れてたかもと思うと、ぞっとするなぁ。

え。全然話がみえない。そういうもんですか?

案内された席に移動しながら、麗は不思議そうに鈴香を見た。

うん、お金や仕事の安定感もそうだけど…私たちね、子どもには前向きだから、結婚する段になって、大きな会社って安心なんだなって思ったんだ。1年くらいなら抜けても、人が多いから均せば仕事回るし、なにより、風土があるから…小さいところに行った友達とか、自分でやってる人とかは、子どものこと視野に入れると結構、げっそりしてて…。その点うちはいろいろ選択肢あるうえに、ちゃんと、外部委託だけど育休中の職業プログラムとか、キャリアカウンセリングとかもあるんだ。認可入れなかった条件で、待機児童対策の保育園もあるの。そういうの先輩がやってるの見て、見据えて前に進めるから、気持ち、全然違う。

そっかぁ。そういうこともやっぱり、考えないとですよね。俺、まだ結婚さえ、実感わかないけど…。

ね。だよねー。彼女と結婚みたいな話、しないでしょう。いいなぁ。いざ結婚するとなると、そんなのおいおい考えればいいや、って付き合えてた頃が本当、懐かしいもの。別に、戻りたいわけでも、ないのにね。人間って変だよね。

いないんですよ。

…。え、あ、そっか。

意外?

うん。いそう。断ってるの?

んー…そもそもいないんですよね。生活の周りに女子が。なんか、いないのに慣れちゃうと、いざ恋愛、てほんと、いざ鎌倉、くらいの緊迫感ていうか。

そんなに? あ、そっか国立理系かぁ…。まあ私も…そういう意味では理系で男の子ばっかりだったのに、恋愛なんて、数えるほどしかしなかったもんな。

大村さん、理系なんだ。

うん。白衣着て。真面目にやってたよ、生体膜の研究。けど、もう全然、覚えてないや…なんかなぁ、めぐりめぐって役には、立ってるんだけど…。

コーヒーが来て、少し、気分が落ち着いた。麗、くん、か…。時々、馴れ馴れしいけど…さっぱりした、素直ないい子だな…。麗はコーヒーに砂糖とミルクを入れて、かき混ぜたところで、あ、あの、そういう、大人のプライベートも、すごく興味あるんですけど、ざっくり本題、入ってもいいですか? と、鈴香に尋ねた。

もちろん。ごめん、私が話、逸らしてたね。なにか、用意あるの? あ、あれだ、自己分析シートとか?

あれかー…。や、恥ずかしいんで、やめとかせてください。ええと…俺、聞きたいこと大きくふたつ、あって。会社のことと、あと、今年のエントリーシート、アドバイスほしくて…。待っていま、メモ、出しますね。

膝に持ち上げたリュックに手を差し込む麗を、機嫌良さそうな顔つきを心掛けて眺めながら、そういえば会社のことを尋ねそびれているな、と、鈴香はひとりごちた。

QRコードから飛んだ先は写真もない、無味乾燥なプロフィールサイトで、ひと目では覚えられない名前の会社のほうはといえば、スマホの画面に収まりそうなほどの文章量の、淡白なフロントページしかなかった。自然言語処理…解析…ソフト開発…。まあ…いいのか…訊かれたがっているかもしれないけれど、自分から話さないなら、わざわざ訊くほど知りたいわけでもない。ちょっと好奇心が満たされなくても、反応に困るような知らないアマチュア仕事の、気負った自慢話を聞かされるよりは、ずっといい…。

あれ…? ないな、おかしい…。え、あれ? まじで、え…?


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。