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春を謳う鯨 ㊻

◆◇◇◇ ㊺ ◇◇◇◆

スーツじゃなくても、いいからね。

? なんで?

なんでって…と、鈴香は言い淀んだ。

そういうところ行くのには動きにくいし…。

し?

し…いくらなんでも、格好良すぎるよ。そういうのは特別な日に、取っといて。

麗は、…言われ慣れているだろうに…にこやかに、うんうんうんうんうん、と頷いて、わずかに触れるような仕草でそっと、鈴香の背中に一瞬、手を添えて、鈴香をタクシー乗り場へ、促した。

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帰り道、背中はずっと、熱かった。

違うと…言いたい。けれど「仕方ない」、どうして、無視できる?

鈴香はたぶん…恋をしていて、だからこんなに…まるで絡めとられた海流の先に麗がいるような抗いがたさで、鈴香の意識は、麗のほうへ、向かっている…。

味を、匂いを、体温を、湿度を、知りたい。

頬で、瞼で、唇で、指先で、口腔で、皮膚という皮膚、粘膜という粘膜で、触れたい。

誰からも遠く離れたあの、ひとりとひとりでしかない場所で、誰よりも近く、呼吸が循環して窒息しそうなほど近く、切れ目なく、繋がりたい。

悦ばせたい。思わず漏れる囁きを、独り言のような悦り声を、聞きたい。

深く、深く、招き入れたその先で、絶望しそうなほど真っ白に、絶頂させたい。

血が混じるように、混じり合いたい。

鈴香の体は好奇心でいっぱいになったまま、高鳴る鼓動を抑えられずに、届かない指を震わせて、息を上げている。

はやく、楽になりたい。

だめだ。

そんな恋は、だめだ。…鈴香は何度となく、鼓動を感じては、我に返った。鈴香は麗とそんなふうにいたいのではない。麗だって…少なくともいまはまだ…楽しむ時期だということは、分かっているはずだ。鈴香たちは、話し合った。そう、話し合って、それでふたりが同意した。ときどき並んで歩くだけの、明るくて、甘くて、優しい、ほんのり切なさですうっとするような安らかな楽しみを、得ようとしている、この先に、安心で、安全な道が、拓けているのだ。鈴香は自分の気持ちを確かめた。大丈夫、ここにある…。

鈴香は麗と、そんなふうにいたいのでは、ない…。

…どっちの、「そんなふう」…?

LINEは相変わらずの調子だった。翌朝、通勤電車のドアが閉まったところ、同じ駅、同じタイミングで、メッセージが来た。

ありがとうございました!
迷いが晴れて、まっすぐ前を向けるようになりました。できることからひとつひとつ、精一杯やっていこうと思います。

いよいよ茶番めいてきたと鈴香は思った。もちろん鈴香は、返信しないでいることも、できる。…鈴香は、どうすれば…?

志望と部署違いで結局、直接の助けにはならなかったね。
それでも支えられる部分があったみたいで、よかった。
使った時間は…取り戻せない代わりに、誰にも奪われないと思ってる。
今は、自分の未来をいちばんに考えて。

返信したあとになって、自分は未来から目を逸らそうとしている癖に、なにを偉そうに…と、苦々しい思いが湧いて、それを噛み締めかけたところで、すぐさま、通知が出た。

あ、
突然すみませんプライベートのこと 相談してもいいですか? こういうの相談できる女性が全然いないので、乗ってもらえるとすごく助かります!
実は今度、好きな人と遊びに行くことになって。
スケジュールだけ合わたんですが
まだ全然そういう関係じゃないので、デートっぽいと重いかなーと思ったり、困っています。
どっちに誘ったらいいと思いますか?

メッセージを眺めて、鈴香は思わず、苦笑した…柿本が言っていた、本腰を入れて不倫をしている人たちの話を思い出したのだった。「御社の高田部長」の予定、「ランチミーティング」の提案、「カンファレンス」の日時の確認、「研修」場所の最寄駅…深刻なんだか、滑稽なんだか…。鈴香は、楽しいと思わなくもないけれど、麗はどんな気持ちでこんなメッセージを送ってきているのだろう? 同じ気分…?

URLを確認した。鈴香は言ってみただけだ。別に、どちらでも…。

突然だね(笑
とりあえず、おめでとう。
前も言ったよね。恋愛周りのことは、私に相談されても…
どっちも行ったことないから、私からはなんとも言えないなー 
当たり前になるけど、まず北原くんが楽しいのが、相手にも楽しく思えるんじゃないかな。

その問題はないです!僕はその人といるといつでも楽しいので
けど自分の興味も合わせてみます

麗の返信が、どきりとするくらいに早い。鈴香はあえて、時間を取った。鈴香はきっと、今週はずっとこのメッセージを、見返して過ごすだろう…麗は? 乗換駅のホームに降りてから隅に寄り、鈴香は返信ボタンを押した。

「こんなところあるんだ」っていうのに弱い人は、多いかもね

これで、いいか…鈴香はしばらく待ってみて、すぐにはメッセージが来ないことを確かめてから、スマートフォンの画面をスケジュールに切り替えた。

URLといえば、楢崎くんからフランスベッドとシモンズのURLが送られてきていた。どうせ鈴香は、横で一緒に寝たり立ったり、値札や、買いもしない小物を調べているだけだろう。値段を見ただけでびっくりして…毎日使うから? 確かに、人生の三分の一を費やす場所だ。1日の出費の三分の一以下だろう500円をそれぞれ出して、5年も使えば…180万円を超える。1日いくらまで出せる? 鈴香はそんな計算ばかりして、楢崎くんはそれを意外にも神妙な顔で聞く割に、皮算用だと言って、冷ややかに笑うのだ…ベッド専門店のサイト…池袋と…新宿? たくさん歩くだろうから、スニーカーのコーディネートを考えなくちゃ…。

ミナガワに、会いたいと、素直に言いたい。

いまもし、ミナガワが抱きしめてくれたら鈴香は、まるで鎮痛剤を打ったみたいに楽になるのに、と、そこまで考えた鈴香は、自分の考えの安易さに驚いた。

痛みを感じなくなるだけだ、痛みがなくなるわけじゃない…。

いつもの駅をいつもどおりに出た。いつもどおりにバス停に向かって、夏服と秋服が入り混じった人の群れの端についた鈴香は、秋晴れした朝の空を見て、会社に向かって歩き出し、歩きながら、続きを考えた。

耐え切れないほど痛い時もある。でもいまはそうではないし、そんな時に効く強い鎮痛剤は、鈴香に痛みだけでなくて、現実まで忘れさせてしまう…。

最近、漠然と、もうずっと眠ってしまいたいと思う時がある。

疲れているんだな、と鈴香は内心、ひとりごちた。たぶん同じ考えで歩くことにしたのだろう、道ゆく人のなかに社員らしい姿をちらほらと見つけた。鈴香は気を取り直して、俯きかけていた顔を持ち上げ、悩みのなさそうな穏やかな顔つきを心がけて、鈴香にはわずかに速く感じられる、人の波に合わせた調子で歩きながら、昨日作りかけのまま置いて帰った明細書をどう仕上げたものか、頭に浮かぶぼんやりとしたイメージを遠巻きに、追いはじめた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。