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春を謳う鯨 ㊵

◆◇◇◇ ㊴ ◇◇◇◆

麗はフォークを持ったまま、鈴香の右手をゆびさした。

握りしめてるから。何本も跡、ついてる。婚約者さんからの、プレゼント?

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鈴香は…どうすれば…?



鈴香はもちろん、何も考えなかったわけではない。けれど行動は、何も考えなかったのとそれほど、変わらなかった。結局「ちょろい」人みたいだな、と苦々しく思いながら、本当に「そういう」ことにならないなら、会えると…麗に、言った。連絡先を交換して、麗はメッセージがいいか、LINEがいいか、頻度はどのくらいがいいか、時間帯はいつがいいか、電話は掛けてもいいか、事細かに尋ねた。鈴香は、別に、非常識な時間帯でなければなんでもいいし、いつでもいいと言った。

だからね、聞かれて困るようなことは、話さないで…見られてもいいような内容しか、送らないで。守れる? 守れないなら、もう何も信じない。いいね?

麗はどことなく複雑そうな顔をして深く、頷いてから、女の子のふり、したほうがいい?と、訊いた。鈴香は首を振った。

男友達で、女の子のふりしてメールしてくる子、いる?

麗は、それには答えずに、おしぼりを丸め直しながら、目を伏せた。

あのね。鈴香さん。俺、…鈴香さんに…会いたい、よ。

鈴香は無言で、麗を見つめた。

…なに?

ううん、ほんと…私のこと、どんなふうに、好きなのかなって、思って…。

わからないんだ。

…。

だから、会いたいんだと思う。会うと少しずつ、わかってくる気がする。

もう…わかったこと、ある?

んー、自分のことは…あんまりかも…。会うと、会えなくて苦しいのがなくなってすごく、楽になるのは、わかった。

…そう…。

鈴香は…鈴香は恋愛は、わからない、けれど、…そういう恋愛は、きっとすぐに、会わないほうが楽になる…鈴香は気づけば、それを寂しいと思わなくなっていて…大人に、なったんだな…。

いいよ。来週の水曜日、じゃあ食事、しようか。

麗の顔つきが見るからに明るくなって、鈴香はまた当惑しながら、もごもごと、話を続けた。

…あんまり、遅くなるのは嫌だから、今日と同じくらいの時間帯がいいな。それで、どう?

…うん。うんうんうん。うんうんうんうん。

ちょ、なに、犬みたい。

鈴香さんて、夜景見ながら食事するの好き?

…あ、え、まあ…そういうのはそういうので、嫌いではないけど…。そういうところって、学生から行くところじゃないよ。お互い近いし、この辺でいいんじゃない。こないだ、友達と行ったレストラン、結構よかったから…そこ、連れてってあげる。

初めての食事にその辺のレストランって、俺、違う。

…君が違うかどうかは…。

いま…夜景見ながらって訊いた時さ、思い浮かんだ場所、あったでしょう。よく行く場所?

え、…ううん…。

有名? 俺、品川プリンスかと思った…違うね? 池袋? Nタワー? 六本木? あ、東京以外? 違うな…。

黙って聞いているだけの鈴香に向かって、独り言を呟くように畳み掛ける麗に、鈴香は本能的な動揺を感じて…隠した。この子…?

タワー…芝公園? 当たり?

…。

鈴香さんにとっては、どんな場所?

…婚約してる人と。初めて行った、そういうところ…。

それからずっと、行ってない?

そんなにずいずい、来られると…怖いよ…なに? 賢いって、言いたいの?

ううん。鈴香さんね、たぶん、自分で思ってるよりずっと、だだ漏れ。そんなに…わかりやすいのに、なんにもわかんないんだもん、俺、今はいいけど、たぶんまた苦しくなるな…。なんなのかなぁ…。

…。

冷めたコーヒーを飲むなんて…このところ、仕事でうっかり集中しすぎた時くらいのものだった。鈴香とってのぬるいコーヒーは、ただ不味いだけではなくて、自分の時間をコントロールできていないことの、現れだ。鈴香はコーヒーは熱いうちに飲みたいし、アイスクリームは溶ける前に、食べたい…。鈴香はなまぬるくなって酸味を帯びたコーヒーを、飲み切って、空けたコーヒーカップを横にやり、いましがた店員が、ごゆっくりどうぞ、と置いて行った緑茶を前に据えて、それがまだ温かいことを、確かめた。

いままで…好きになった人、どれくらいいるの?

尋ねた鈴香に、麗はどことなく、考え深げな様子で、モンブランにフォークを刺し入れながら、答えた。好きらしい好きは、ひとりかなぁ。昔ね。子どもの恋愛。大学では、全然。

それは…こんなふうだったの?

んーどうだろ。好きになってもらったと思って好きになって、…今度は好きになりすぎて、そのせいで振られた…?

…。

ま、だから全然、違うよ。ていうか…もうよく、覚えてないや。なんか…他人の恋愛みたいな感じ…。鈴香さんはそういう恋愛、ある?

私は…。さっき言ったでしょう、恋愛自体、するっていうほどしなかったし…まずそんな、どったんばったんするような恋愛は…私は、好きじゃないよ。

ふうん…。安心したい?

どちらかといえばね。

じゃあ安心、しよう。俺もどったんばったんは、俺っぽくない感じが、するから。ちょうどいいや。

な、…十分、どったばった、してるでしょう。困るのは、私、嫌い。

知らないふたりなんだから、初めは仕方ないよ。なんだかんだ俺たち、最適解を導きつつあると思うけど。ちゃんと、話し合ってよかった。ね? 

さあ。よかったかどうかはまだ、わからないんじゃない? けど…約束を守れるうちは…かつ、君が、飽きるか諦めるまでは、まあ…いいよ。私も君みたいな「友達」がいれば、なんだか生活にハリが出る気がするし。

麗は、涼しげに笑って、チーズケーキ食べちゃっていい? と、訊いた。鈴香は、こちら側に置いてあったチーズケーキを、向かいへ押しやった。

「友達」かぁ。鈴香さんって、親友、何人くらいいる?

…。さあね…。

ミナガワの顔が思い浮かんだけれど…ミナガワは、いま、「親友」…? 鈴香は時計を見た。

あー、なんだか大変な1時間だったな…。帰って私、ご飯作らなきゃ。ケーキ、ゆっくり食べてから帰ったらいいと思う。じゃあね。

今度こそ財布から千円札を1枚、抜き取って、麗に渡した。麗は…意外に…すんなりとそれを受け取って、両手で持ちながら、あのさ、東京タワー見たい、で俺の希望、通ってる? と、尋ねた。

鈴香は、立ち上がった姿勢で、なんと答えたものか、考えた。別に、実のところ、鈴香はどこだって…そうだ、一応…。

いいよ。連れ回してると思われたくないから、大人っぽい格好、してきてね。

あ、そっか…や、まーかせて。ほら、名刺の裏の、一人株式会社ね。仕事用のスーツ。着てくよ。

いつも帰るくらいの電車には、乗れた。ああ、予約は…まあ、いいか、気が利いていなくて、していなければ、近くの飲食店に入れば…それが気軽でいいのだから、むしろそっちを、調べておこう…。

吊革を掴んだ腕に頭をもたげて、見慣れた風景が流れ行くのを眺めながら、鈴香はふと、ひとりごちた。

なにそれかわいい。馬鹿みたい。…か…。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。