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春を謳う鯨 ㉛

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キッチンから焼けた林檎と生地の、ねっとりと甘く、香ばしい匂いが漂ってきていた。ミナガワは、鈴香の手を持ち上げて、鈴香の指の背にその、たっぷりした、血色のよい唇をそっと、押し付けて、鈴香。今日の服、可愛いね。可愛い。と、いつもどおりの、艶めかしい余裕を潤うように含んだ表情で、にっこりと笑いかけた。

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浴槽には上品な香りのバスソルトが入れられてあって、ミナガワは鈴香の体を洗ってくれた。ミナガワはお湯に浸かりながら、最近技術系のブログを始めて、それが意外にも人気だという話をした。鈴香には全然、わからなかった、けれどもミナガワは一生懸命、たどたどしく、浴室の壁にシステムの概念図を描いていて、そのあいだ鈴香は、ミナガワの美しい額や愛らしい口元が、楽しげに動くのを、見ていた。鈴香が英語の勉強に、字幕なしでドラマをみていたのを、ドキュメンタリーにも拡げた話のついでに、仮定法で表現できる思いやりについて話すと、ミナガワは仕事でそういうメールが来たことがあると言って、少し驚いた風をみせた。

テクノロジが新しいと技術書、まだ出てなくて、サイトで調べものするときも英語なんだよ。読む専門のサバイバル英語だからね、電話とかメールとか結構来るくせにすっごくワタワタして、幼稚園児みたいになっちゃうの。とにかく投げられた球を打ち返すのに必死で、仮定法どころじゃないんだよねー…絶対、失礼な英語になってるなぁ。

けど、それでも一応、伝わるようになってきてるのは、成長したなって、思うようにしてる。ミナガワは得意げに、照れ笑いをした。丁寧に丁寧に、キスをした。お湯が水のようになって、温め合っているみたいだった。

ミナガワはカルボナーラの作り方を教えてくれた。ミナガワが鈴香の分を作って、鈴香がミナガワの分を作った。鈴香が謝るとミナガワは、しっかりコツは掴めたよ、あとは練習練習、と微笑んだ。鈴香は食材に詳しくなったことを見せようと、サラダに入っている野菜を全部当てた。ミナガワは指をさしていないほうの鈴香の手を握って、優しく頷きながらそれを聞いた。映画を観ようとして、やめて、ベッドに入った。一度、マカロンを食べにTシャツだけ被ってベッドから出て、また戻った。ミナガワがいつも飲んでいるハーブティーは、砂糖を使っていないというのになぜか、とても甘くて、ほんのり、柑橘の香りがした。長い…長い、夜の果て、鈴香は気絶するように眠りに落ちた。明け方にいちど、目が覚めてミナガワを覗き込むと、夢うつつのミナガワが鈴香を抱き寄せた。ふたりとも、何も着ていなかった。指を絡めて目を閉じて、いつのまにかまた、眠っていた。

近くの青果直販所で朝市があるとミナガワが言い、シャワーのあと、コーヒーとパンとサラダだけの簡単な朝食をとって、散歩に出かけた。からりと晴れていて、ミナガワと鈴香は日蔭を歩いた。鈴香はミナガワのペディキュアの幾何学模様が素敵だと言った。ミナガワは頰を染めて、繋いでいた鈴香の手を、握りしめた。ミナガワは2本の編み込みを巻き込んで、頭の後ろでピン留めしていた。鈴香はあの、月兎の髪留めをミナガワに借りて、左の耳元で一つに束ねていた。

見たことも聞いたこともない名前の野菜を、売り子のおばあちゃんに調理の仕方を教えてもらって買い込んで、帰り道、鈴香は、ミナガワとこうして過ごす土日がとても好きだけれど、何年も何年も続くわけではないと思う、そう思うと、いまはなんて幸せなんだろうと思うときがあると、言った。

ミナガワは、立ち止まって、鈴香のこめかみに自分のそれを軽くぶつけて、また、歩き出した。

私はずっと、一緒だよ。何が変わっても、どうにかなるよ。だってこんなに…。

こんなに…?

んー…はっきりどうだとは、言えないな、こんな…こんなことってあるんだなって、私はいまだに思ってて、でもなんだかね、コツを掴んだ気がしてるんだ。

コツ?

そう、幸せになるコツ。

陽射しを受けたミナガワのうなじは、ハンカチやスカーフを掛けて守ってあげたくなるほど、白く映えていた。

ね? あとは、練習練習、ね。鈴香も、大丈夫だよ。何があったって。だって、鈴香なんだから。

…。

鈴香は…言葉というのは、誰が言ったって同じ言葉なのに、どうしてこんなに重みが違うのだろう、誰から掛けられても言葉は、同じ言葉なのに、鈴香はそれを同じようには、受け取れない。この、それぞれの重みがもし、言葉を受け取る側の心が付けている重みなのだとしたら、鈴香はミナガワを、やっぱり…。

そうだね、練習練習、だね。

それから、ふたりともなんとなく、黙って歩いた。

昼食の準備をしているとき、鈴香はふと、我慢できなくなって、ミナガワの肩を抱いた。

あのね、ミナガワ。

ん…?

鈴香は、謝ってはいけないと思ったし、感謝してもいけないと思った。けれど、それを抜くと、何も言葉が出てこなかった。

ミナガワ、あのね…私、いま、やっぱりね、色々なことが変わる前で、色々、見えなくて、不安で、だからこんなふうに…すがるようなこと、言うのはきっと、気が弱くなってるからだと思うんだけど…。

うん。いいんだよ。なんでも、言って。

…。「ずっと」…?

鈴香が呟くように力なく尋ねると、ミナガワは鈴香が抱いた腕を取って、鈴香の掌に自分の頰を埋めた。

ずっとだよ。信じて。

ずっとね…?

うん。ずっと。

昼食はブルガリア料理で、ビーツのヨーグルトスープが鮮やかだった。ミナガワは鈴香に、おすすめの多国籍料理のレシピサイトを教えてくれた。

鈴香はミナガワに、駅まで送ってもらった。改札から振り返った。ミナガワは車寄せのあたりでまだ、鈴香を見送っていた。鈴香が照れて軽く、手を振ると、ミナガワも手を振って笑顔を見せ、くるりと、踵を返して、歩いて行った。鈴香はミナガワの背中をひと呼吸見つめてから、鞄を肩に掛け直し、歩き出した。





ひと段落、か。なんだか、余裕ができちゃったな。

なんて…思っては、いけない。ミナガワの想いはまるで、宝石のようで、それを鈴香はこれからも「ずっと」、大切に、育てていきたいのだ。鈴香とミナガワの関係はいま、やっと、始まったところだ…。

人生はまだ何十年もある。ずっと同じなんて、つまらない。次は、いつ、どんな人が来る…?

鈴香にはもうたくさん、大切な人たちがいる。みんな嘘みたいに素敵な人で、みんな、自分なりにだけれど、嘘みたいに、鈴香を大切にしてくれている。それに…想像はつかない、でも…これからとても、大事な存在が、楢崎くんとのあいだにできるはずだ。鈴香は幸せで、幸せに慣れるのは、鈴香の思い描く幸せではない…「もう求めるものなんてない」。それは、幸せだ。

幸せ? 恋愛がわからないなんて、うそぶいて…。もう、新しい恋をしないの? もう、「出会い」は、おしまい?

鈴香は、この人となら添い遂げられると思えるような相手を、ずっと探していたのだと思う。たぶん、やっと、見つけた。鈴香の求めるものを持っているのが、たったひとりの人ではなかっただけだ。鈴香は、もう、探さなくていいし、選ばなくていい。安心して、他の、自分の、大切なことを、大切な人たちのために、頑張ることができる。

結局、何も得てはいない。辿り着けないまま、秘密を抱えて、ひとりぼっち…。ここは、どこ?

心のどこか、隅のほうで膝を抱え、俯いて、正反対の言葉を交互にぼそぼそ、唱えている自分から、目を逸らして鈴香は、ミナガワの記憶で体と心をいっぱいにしながら、座れた昼下がりの中央線に、うとうとと揺られた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。