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【短編小説集vol,9】鎌倉千一夜〜あの日へネジを巻く

第44夜 ライカの死角

 PCに向き合いすぎて視力を失った。撮影したデジタル画像をレタッチする作業があまりに膨大で、熱中しすぎて油断していたのだ。全ての視界はぼんやり霞んで、生活するにもいちいちシルエットで判別するしかない状態だ。こんなことなら、きちんと狙い通りの値に設定して撮るようにすべきだった。最近の撮影は撮った先からコードで繋いだPCモニターに写すことになったため、クライアントが明るさだのアングルなどに都度都度口を出す。急かされるように次のカットを求められ、しかもデジタル化されて以来撮影に許される時間の制約が劇的に厳しくなった。銀塩時代はポラロイドのシートをめくるまでの待ち時間、フィルム交換時間、完璧なライティングのためのセッティング時間などが許容されていたが、今はとにかく撮ってしまい後でレタッチすればいいことになったのだ。そうなると我らカメラマンはシャッターロボットのように聞こえるかもしれないが、ところがどっこい被写体の表情を引き出し、切り取り、ドラマチックに仕上げるのはロボットには無理だ、と思って撮っている。
 虚しい現場に辟易し視力も失ってはカメラマンを続ける気力はもはやないが、カメラを手放すのだけはやめた。これまでシャッターが私の感性を発揮させるスウィッチだった。私の思いを表現する際にシャッター音が鳴るたびに感覚が研ぎ澄まされ、次なる発想が積乱雲のようにどんどん湧き上がっていた。もはやこの装置を手放す理由はない。そうとなれば所持する中で一番愛するこのカメラがいい。シャッターが独自の音で圧倒的に心地よい…、もちろんライカだ。しかも銀塩時代の初代M3がとりわけいい。
 カシュ。
視力がない状態で私の思いを表現する手段は何だ? 文字ではない。説明がくどくなってしまう。そもそも視力がなくては文字は扱えない。朗読もいいがそれも文字の音声化なわけだから、くどいことに変わりはない。やはり写真のように一見してこちらの想像力がぐわんぐわんとフル稼働させられるような手段がいい。被写体が人物ならその表情、風景なら風や日差しからその瞬間を想像することができる。ライカはそんな瞬間を切り取ろうとするカメラマンの意図をくまなく汲み取ってくれる。しかし、私にはファインダーをのぞく力がない。
 カシュ。
思考はスチールシュートなのかシークエンシャルムービーなのか初めはわからなかったが、どちらでもないことに気がついた。思考するのは変幻自在だからだ。五感を失った時に唯一残る感受手段は思考だ。ではこれをどうアウトプットし表現するか? 
 カシュ。
そうだ、生まれながらに視覚がない場合、触れる物体の情報はない。いや、先入観がないと言った方がいい。すべては想像、いや創造するのだ。この手段は困難かつ自由だ。ゼロのスペースに変化を発生させるわけだから。例えればRPG。プレーヤーの挙動で展開が変わる小世界。そこに表示されるのは地球上の物質である必要はない。いや、これまでゲームクリエイターが創り出してきた地球外の設定も、所詮地球上で生み出された製品なので地球域内と言える。3次元を超えた動作も思考上では可能だが(あくまでイメージできればの話だが…)、リアルにそれを表現することは物理的に難しい。
 カシュ。
それではアウトプットでの表現は止めにして、思考を脳内共有する方法に切り替えよう。それならいくらでも用意はできる。距離や時間に関係のない思考を重ね、いつか解明されるであろう脳内共有が実現化するときに備えるのだ。なるべく地球上で見えている情景とは違うものをイメージしよう。
 カシュ。
物質はもちろん概念すら地上独自のものだ。ひたすら思考を無にして意識で地球外を感じることにする。M3のシャッター音の余韻がやけに意識を占領する。ん? これまでは無意識に被写体に向き合ってきたが、じつは私自身がカメラという装置になっていたのではないか? そう思えるほど自分の意識は身体から離脱している。シャッターを切ると1000分の1秒だけ暗黒のカメラの筐体に光が差す。私はその微々たる瞬間だけスポットライトを浴びたかのように、筐体内世界の住人となる。そしてシャッターが閉じると暗黒に戻る。
 カシュ。
ということは視力を失った今の私も、カメラマンだった私も暗黒の住人に変わりないのではないか。では1000分の1秒というのが本当に微々たる瞬間なのか? 地球外の発想をすれば、宇宙誕生以来138億年に対しての人間一人の生涯より圧倒的に長い、それは光溢れる世界なのである。
 カシュ。
ライカのレンズは宙を向いている。私にはどこを向いていても関係ないのだ。ただただその心地よい音、その余韻を聴かせてくれればそれでいい。


第45夜 聖泉の効能

 やはりそうだった。そこから湧き出したものは温泉だ。ここはかつて切通しがあり通り抜けられたが、岩盤の弱さが指摘され通行止めになった。やがて草が繁茂し誰も近づかない場所になっていたのだが、前から道脇の小川が冬に湯気を立ち上らせているのが気になっていたので鎌倉図書館で古文書を漁ったら、道行く人たちに足湯を振る舞う茶店があったという記述を一つだけ見つけ確信した。私はこの切通しに隣接する山林を300坪ほど買い求め掘削することにした。住宅建築を認められない山林をわざわざ買うものはいないので鎌倉でありながら格安で購入できた。伸びるに任せた杉林は蔓植物が地表を覆っているので枯野になる12月を待ってまずはそれらを刈り取り、かつて湯気を見た小川を露出させる。指先を浸し水温を確かめながら遡る。ここは周りの雨水が集まる窪地になっているので地中だけでなく地表の雨水も集まる。しばらく遡ると流れは急に細くなり源流の様相を見せる。これだ。指先は明らかに先程より温かい心地よさを感じる。
 湧出地点に達し厚い蔦を刈り取った時、私は思わず立ちすくんでしまった。明らかに祀っていたと思われる石を組み上げた祠が、まるで産み出された赤子のように顔を見せたのだ。湯は一度すり鉢ほどの窪みに溜められ、箸ほどの細い流れで小川に向かっていた。湧出量が少ないからだろう。私は周りを見渡した枯野では貴重な色彩である椿と南天を摘んで祠に供えた。
 それからは毎日あの聖泉の保持方法を考えた。湯があることはわかったが、聖泉のそばを掘削したら確実にあの流れは絶えてしまうだろう。それは望まない。だがせっかくあの土地の主になったので、あの地に滞在する目的を持ちたい。私はまず祠周辺に今後蔦が蔓延らないよう根まで除去し、露呈した土の上に小川の砂利を撒いた。そしてその近くを均し、大きめで頑丈なテントを張りっぱなしにし、数日寝泊まりしてみた。噂通り繁殖した外来動物らしきものがテントの隙間を狙ってきたので何重もの対策を講じた。鎌倉は低山ではあるが、なかなかの野生を感じる。だからこそこの聖泉に有り難さを感じる。滞在中は土地の整備で1日が過ぎていく。育った杉はある程度間引くために切り倒し、薪にするために丸太にしていく。雨天以外は外の竈門で調理を行う。水道は来ていないのでポリタンクをスクーターに積んで持ってくる。外でしかも自分の山林で飲むコーヒーは格別だ。いつしか豆を焙煎することからやってみたら豆の品種までこだわりが進んでいったところで意識が水に及んだ。すると同時に聖泉から流れの音が聞こえてきた。窪みを堰き止めていた溜まりの落ち葉が動き流れ出したようだ。その時この湯に浸ることにしかなかった私の意識が舵を切った。飲んでみよう。
 水質検査では思ってもいなかった結果が出た。飲用には適応したが、とりわけその成分が濃いのだ。硫酸塩泉。基本的には末梢神経障害に効果が有るそうだが、この濃さはなかなかないらしく、飲用した場合に肥満に効くらしい。定年しても飲酒の習慣は抜けず一向に体重が減らない私にはうってつけの湯だ。さっそく水を運んできたポリタンクいっぱいに溜め、飲料や調理に使用した。1週間ほど経つと、言われた通りの効果が見られた。85kgあった体重は79kgに。その落ち幅は劇的で、なにより80kgの壁をあっさり越えられたのには驚きしかない。これにより体重が負担をかけていた膝痛も治り、寝起きも清々しいものになった。
 この湧出量では希望する皆にまで行き渡らせることは難しい。しかし肥満に生死を左右されるケースは極論ではない。どうにかそういう人にだけ届けたい…。私はそれから湯を集め続けた。1分500mlほど。20lポリタンクをまずは10個作り、知り合い周辺の肥満者に試してもらった。水質検査結果を見せることで信用を得ることが出来、効果も一様に発揮した。私はこの泉を独り占めしてはいけないと感じ、土地を市へ寄贈した。

第46夜 化粧箱の鶴

 勤めから帰宅した息子の今日の出来事を聞いていた。
「粒あんのつぶし具合が微妙でさ、やっと今日褒められたんだ。つぶし切っちゃうと口の中で皮が気になっちゃうし、豆を残そうとするとあんこじゃなくなっちゃうんだ」
私の仕事より生き生きとして、正直羨ましかった。毎日息子はクタクタになり帰ってきていたがその言葉には明らかにやりがいが感じられる。私はといえばずっと前にそんな気持ちは失い、管理職としてどこでも同じような仕事をこなしてきた。息子はこし餡で甘くないおはぎを提案したら好評だと喜んでいる。私は正直嫉妬した。私が捧げてきたのはそんな手応えのある仕事ではなかった。ひたすら親会社の売り上げにつながることを進めていたため、顧客の喜ぶ姿など見たことはなかった。定年を控え、何か虚無感を感じ手応えを探した。息子の菓子職人。正直羨ましかった。
「おまえのお店は人の募集はしていないのか?」
主人がそろそろ立ち仕事が厳しくなってきたことでお菓子作りは人に任せたいと話しているそうで、ちょうど探そうとしているところだという。
「お父さんを入れてくれるよう聞いてみてくれないか?」
ついに口に出してしまった。当然若い人が欲しいはずだが、このところの枯渇感と息子の充実感に接してきたことで、感情を抑えきれなくなったのだ。息子も驚いていたが主人に聞いてくれ、賃金は小遣い程度であることと、若い人がやってくるまでの約束でOKが出た。
 私は息子への弟子入りを志願した。息子を師匠と仰いだ。毎日小豆の扱い方をひとつづつ教わっていると、家とは違う息子が見えてきた。師匠である息子はもはや身の回りに気をかける対象ではなく、頼もしい行動力で材料の品質管理もしっかりやっていた。私はわからないふりをして意地悪な質問をしてみたが、息子は怯むことなく応えた。大人になったことだけでなく、何よりもこれまでは知ることのできなかった真実が見えてきた。
 私の転勤で息子も小学校の転校を余儀なくされた。ある日、妻がランドセルを整理してあげると中からたくさんの折り紙が出てきた。鶴や手裏剣や花や籠などが底のほうでくしゃくしゃになって溜まっていた。どうやらしばらくクラスメイトに馴染めず、休み時間にひとり席で折っていたらしい。私はその光景を思い泣けた。だがその後、息子はちゃんと友達を見つけていき、やがてクラスに馴染んだ。自分で難局を切り抜けたのだ。私はそれ以来息子を信じ見守ることにした。
 ある日、おかみさんが銀行に行く間店番を頼まれ初めて商品の包装をやることになった。とはいえ箱全体を包装紙で包むのではなく、椿の花が描かれた和紙を化粧箱に巻き、紙紐で巻いて手提袋に入れるだけだ。だが、並べた菓子に半透明紙をかけた後に、店ならではのものとして鶴の折り紙を乗せてから蓋をするのだ。潰れないよう鶴は蓋を開けてから両羽根を広げ完成させる状態で納められる。しばらくは鶴を入れることを気にかけずいたが、帰ったおかみさんにこの意味を尋ねると、それは思ってもみないことに息子の提案によるものとのことだった。菓子を食べてくださる方に何か思いを添えたい、千羽をお入れするのは無理だが、まずは自分の手から千羽送り出したい、とのことで毎日30ずつ折って帰るのだそうだ。ただあんなに丁寧かつ早く折れる人は見たことないとおかみさんは褒めていた。30年近く忘れていた事が一気に蘇ってきた。私は作務衣の裾で涙を拭った。
 今日も息子は私より後に帰ってきた。店での姿と違い、30半ば過ぎの独身男のむさ苦しさを発しているが何か自信には満ちている。
「おまえの鶴、なかなか綺麗だな。きっとお客さんも喜んでいるはずだ。早く千羽に行くといいな」
「まあ少しづつやっていくよ。父さんがどんな日だって毎日仕事に行ってたように、僕も欠かさないようにする」
私はビールのグラスを掴んだまま、しばらく口に運ぶことは出来なかった。

第47夜 あの日へネジを巻く

 親父が若き頃に初任給で買った、今は形見のゼンマイ式腕時計。国産の秒針付き白文字盤で、ごくシンプルな普遍的デザインだ。暇な時にネジを巻くのがくせになったから止まることはないが、精度は低いので誤差は半端じゃない。なので仕事時間はスマホを見て、酒場ではこいつを見る。そこでは誤差はむしろ歓迎だ。まだこんな時間かとお代わりを頼む。そして終電に慌てる。 親父が親父らしかった日、思い出そうとしてもわずかなシーンしか浮かばない。もちろん一挙手一投足が甦る、なんてことはない。還暦近いこちらの脳力も衰えているからだ。背中から被さるようにして私の手を取って釣り糸の結び方を教えてくれたこと、私を前に抱え緩斜面でのボーゲンを教えてくれたこと、物事の先を読むことの大事さを教えてくれたこと、地元固有菜と干し大豆を潰した打豆とを煮ると美味しいこと、佐伯祐三のタッチが抜きん出ていること、シェイクスピアの翻訳は坪内逍遥に尽きるということ、そして時間は大切にしなくてはいけないこと。今の私にはそれが記憶のすべてだ。おそらくそれらに費やされた時間をすべて足しても、父親と暮らした18年間のうちの半日程度の時間でしかない。ではあとの時間はどうしていたのか? アルバム一冊に収まるモノクロ写真たち、それと後半のページにわずかに貼られた薄い色合いのカラープリントがその時間を見せてはくれるが、私の脳のアルバムにはそれらは存在していない。黒いレンズのサングラスをかけ若々しいスタイルの父親は、筋肉のついた腕で私をしっかりと抱いているのに…。 その頃私を抱き抱えていた父親の腕にはこのゼンマイ時計が巻かれていたはずだが、悲しいことにカチカチというこの音は記憶にはない。何度耳を寄せてもだ。それでも私はネジを巻き続ける。この一定のリズムが父親の鼓動なのだから。

第48夜 恋は何度もするものじゃない

漂う日々を経て
心が繋ぎ止められた舫
またその綱を解くのか?
そんな日はやってくるのか?

その地は確かに四季もあれば荒天もある
そんな日は屋根の下で穏やかに過ごせばいい
仮の宿かも知れないがそこに身を任せ
困難を過ぎ去らせるのだ

確かにあなたは漂泊の旅人かもしれない
しかし所詮球体の表層を周回するに過ぎない
その舫を解いて出ていくのなら
戻ってはいけない 戻っては来られない

繋いだ舫は解くべからず
舫は自らの手で解くものじゃない
自身が繋いだ舫だから
ここしかないと目指した地だから

あなたはその漂泊を続けるのか
漂泊を余儀されなくされているのか
望んでいるのか
何度もするその恋は恋じゃない

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