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阿佐ヶ谷姉妹式居住スタイル 秋豆絹

今のところ、私の理想は阿佐ヶ谷姉妹である。

何を言い出したのかわからないかと思うが、人とどのように生活していきたいと思っているか、という話をしたい。

独身、既婚者、子を持つ、シェアハウスをする、など、現代は非常に多様な生活の形がある。
その中で私は阿佐ヶ谷姉妹になりたいのだ。
なにもピンクの淑女ドレスを着てスキャットを歌いたいわけではない。彼女たちはアパートのお隣さんとして共同生活を送っているのである。

お二人は元々一つの部屋で同居していた。しかし共に生活するにはあまりに部屋が狭く(なんと六畳一間)、色々なご縁を経て同じアパートの隣の部屋も借りて部屋を別々にして暮らすこととなった。

私は自分一人では生きていけない人間だと思っている。1ヶ月に2回程度は友人なり誰かと会ってご飯や遊びに行きたいし、どっぷり特定の一人と仲良くするよりも、できる限り多くの縁を維持したい。(無理に増やすということではない)
なぜかといえば、同じ話をするにも人によって受け取り方や返ってくる言葉が違うように、感性や見えている景色が人の数だけあり、それを享受できることは何より心が充実するからだ。(さまざまな葉が地面に降り積もることでより栄養のある腐葉土になるようなイメージ)
また最近は、人と一緒に暮らし、季節の変化を共有しあったり、相手がいるからやる気になれる料理を作ったり、日常生活を人と送ることで得られる木漏れ日のような安息感に身体が癒されていくことに気づいた。

しかし、ずっと人と一緒に居続けるのは逆に心がすり減ってしまうのだ。
私は休日1日は一人で過ごせる時間があった方が、人に会うための体力が回復するし、家で誰かと一緒にいても会話をせず一人で何かをしても咎められない時間が欲しい。

例えば恋人。私はSNSの下僕なのでスマートフォンを見ていることがしばしばある。実家にいた時は部屋も複数あったので各々が何をしていようが特に気にならないし、お互い違うことをやっていても話をすることもある。
でも恋人と同じ部屋に居続けるとそうはいかない。相手以外の何かにうつつを抜かしている状態が相手にとって不満をもたらす可能性が高いためだ。(そういったことが気にならない人もいるかもしれないが)
日々を共にできる喜びはあっても、1人の時間を愛す権利がないのだ。それが恋人を作ることであり結婚するということなのかもしれないが、私にはまだその決断ができるほどの胆力がない。

そこで私が最初に見つけた生活の形は、「同性の友人2人が同居する」だった。
『女ふたり、暮らしています。』という書籍を偶然見つけたのだが、そこでは、韓国の女性ライター2名が、同居するに至った経緯や同居に至るまでの準備、同居してからの生活について追体験できるかの如くリアルに書き記している。

この二人の生活スタイルは、恋愛感情を伴わなくとも人は生活を共にしていいんだと、今までの自分の当たり前を覆してくれた。

ただ、同居というのもなかなかハードルが高い。私は食器洗いをいかんせん後回しにするし、すぐ床が服で色とりどりになるし、はっきり言って衛生観念が乏しい。そんな私と同居したい人いるんだろうか?と思う以前にとても同居させていただくわけにはいかない。
(それくらい努力しろよという話ではあるが、今は理想について、なので目を瞑っていただきたい)

そこで次に見たのがドラマ『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』である。
こちらは同タイトルのエッセイをもとにドラマ化し、阿佐ヶ谷姉妹が件の六畳一間のアパートで暮らしていく日常を描いている。(ドラマ視聴後書籍も読了した)
やはりこうやって同居できるのが1番なのかなと思いつつ、迎えた最終回で2人はアパート内のお隣さん同士になった。さらに、その後の理想として「アパート全体を借りて別の友人にも住んでもらいみんなで過ごしていく」というものを掲げていた。
衝撃である。アパート内のお隣さんなら自分の部屋があり基本的には自分で自分の生活を運営できる。
それでありながらいつでも誰かの部屋に行ってご飯を一緒に食べたり、足りないものを共有したり共同生活に近しいことができる。
しかもアパート全体を借りて友達みんなで住む…。超楽しそうである。


…それができたら、どんなに平穏だろうか。

本当は、好きなことを突きつめ、できるだけ多くの好きな人たちと関わり、気の合う誰かと生活を共にしたい。誰のことも傷つけずに。

これがどれだけわがままなことで、誰かと暮らしていくには負の面も受け止めていく必要があることもわかっているのだが、あくまで理想の話なので、ここで昇華させてほしい。

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