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安心と信頼の違い 七緒栞菜

 昨日読んだ本に「『安心』と『信頼』は異なる」と書いてあった。その違いは「不確実性を許容できるか」なのだという。「安心」は許容できず、「信頼」は許容できるのだそうで。芦田愛菜さんが、「信じる」ことについて「相手に裏切られたと思うのは、自分が思い描いていたその人の知らなかった部分が新たに見えただけ」という名言を残しているが、それに通ずるものを感じる。

 対人関係において「安心」をベースに関係性を築くことは良いことだと思ってきた。相手と私がすべてを共有し合っていると感じられるからだ。でも、それは余白がないことと同義なのかもしれない。相手に私を預け切っている。相手に私のすべてを開いている。

 一方で「信頼」には余白がある。それも、相手に私を開ききっていないわけではなく、開いた上でなお、余白が残っているのだと思う。(ちょっと何言っているんだろう、伝われ!笑)私にすらわからない私の一部分がある。そして、相手もそれをわかってくれているという状況。「ジョハリの窓」の自他ともにわからない部分(「未知の窓」だっけか?)を、見えなくても認識はしているというような感じ。また、それはお互いにいえることで、私にとっても相手の「知らないかもしれない」部分がちゃんとある。その知らないかもしれない部分が、どうであろうと、私はその人を信じている。

 パートナーと過去に、「誰になら大金を貸すことができるか」というテーマで話をしたことがある。単なる友達と大金を貸すことのできる友達の差はなんだろう。そんな風に思いながらこのテーマを話したことを思い出す。そのときに出た結論は「返されなくてもいいかどうか」だった。この結論は、相手を「信頼」しているかどうか、に近いのではないだろうか。「安心」の場合、この人なら絶対に返してくれるという「私の」期待のようなものを抱いて貸すことになるが、「信頼」の場合は、きっといいように使ってくれる、そして切羽詰まっていたのだろうという「相手の」見えない部分を信用するのだと思う。

 信頼したいし、されたいなと思う。互いに余白をもち、その余白から、いい意味で裏切られることを楽しめるような関係性を築きたい。


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