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読書ノート作ってみた

と言うより必要に迫られて。

今地域の図書館から借りた、
『太平記』を読んでいるので、
さすがに1300年代後半に書かれたと思われる、
漢文基調の古典となると、
メモしながらじゃなきゃ読み切れんよ。

という次第で以下に、
作ったメモをほぼそのまま記録してみました。

日本史の、
中でも南北朝とかよぉ分からんって人は、
どの辺りに引っかかるかが透けて見えないかなって。

ちなみに今回は全体の、
まだ3分の1(巻一~巻十二)です。

  3分の1 3分の2 3分の3


鎌倉に幕府があった頃
  源家は三代で絶えて、
  北条氏、元は仁政。←ここ個人的にはわりと大事。
  北条高時の代で後醍醐天皇(1318年即位)と対立。

天皇の妻子(⚠️『太平記』は物語なので、
    基本的に史実と異なる事も多い点は念頭に入れて⚠️)
      藤原嬉子(中宮)、藤原康子(元妃)
        ↑正妻的な    ↑身分下だけど寵愛
      一宮 尊良親王 詩歌
      二宮 宗良親王 仏道
      三宮 護良親王 比叡山座主

そもそもこの時代の天皇は二系統
  (なんで?←『太平記』より前に決まってて分からん)
            後嵯峨天皇の
 後深草天皇(持明院) ← 兄弟 → 亀山天皇(大覚寺)
       ここから代わる代わる即位する
   ↓                 ↓
  後伏見天皇            後宇陀天皇
   ↓                 ↓
  光厳天皇(1332即位)       後醍醐天皇
   弟が比叡山座主に。

まず後醍醐天皇側から笠置の戦
  
笠置城  (京都)    足助次郎重範
  赤坂城 河内國   楠兵衛正成
  一宮城 備後國   桜山四郎入道
       ←→ 足利治部大輔高氏出て来たけど、
          ここでは北条方の一人

  全城落ちて後醍醐天皇、隠岐國に流罪
  寵臣、万里小路宣房の子二人(藤房、季房)も遠流
        → なので光厳天皇が1332年に即位した。

※余談:いきなり挟まる三國志の逸話が、
    長いし「今それええねん」ってなる。
    ところで南蛮西戎東夷北狄って言い方がイヤだなぁ。
    罵るにしても言葉尻揃えやがって。

   ※一杯の酒を一度、三度飲むと一献

護良親王カッコよさげ(多分ヒーローの原型)
  
赤松の忠、平賀の智、村上の勇に助けられて、
     (※『八犬伝』ぽい。と言うよりこっちが先)
  奈良の王子から吉野に。

  当時吉野もややこしくて、
  執行役を勤める家が吉水院と新熊野と二系統あって、
  後醍醐天皇、吉水院側ばかり重用してたから、
  護良親王、新熊野側に裏切られる。

  出羽入道道蘊から責め込まれて、
  金峰山寺蔵王堂の大庭で肩に7本矢が刺さったまま酒宴。
  自害しようとしたけど、(※蔵王堂観光で庭と石碑見た)
  村上義光(よしてる)が身代わりになって、
  天川村から高野山へ。

一方楠正成は
  
赤坂城落とされた時死んだフリして、
  千早城建ててこもってました。
      (※よく道の駅のカレー食いに行く辺り)

  紀氏に清原氏攻め寄せてるとこに、
  出羽入道軍、吉野攻めの後やって来て、
  陣に傾城(遊女)呼んだりして完全になめてる。
  そんなしてる間に高野山(護良親王)から軍来るし。

  結果最後まで城保っててスゲーとは思う。

新田義貞登場
  
北条方なんだけど源氏の嫡流だって、
  護良親王にこっそり接触して鎌倉追討の綸旨もらう。
  (なんかこの時代何やるにも天皇か親王の言葉が必要) 

  その頃、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出
             → 鳥取県の船上山に
  脱出できたってなると西国・四国は徐々に天皇方に。
  (天皇実質二人いるし両方とも官軍名乗るし読みづらい。
   しかも文中では後醍醐とか北条とか書かないし。)


「軍記物語」なので戦描写はそりゃ盛り上がる
  
四国の赤松軍、摩耶山から桂川、山崎と戦いまくり。
  淀川封鎖したから京が商売出来なくなって、
  京都六波羅軍も戦に出ざるを得ない。

  三十三間堂でも戦ってここでは六波羅側勝利。

  ※比叡山の比叡は「仏法、王法と相比する」意ってホント?
   しかし大衆(叡山僧)は言う甲斐無しだな。
  ※後醍醐天皇軍の本隊も丹波に逃げたぞおい。


京都六波羅落ちる
  
当時治めていたのは北条仲時と北条時益。
  鎌倉幕府の執権は北条高時と弟の泰家。ややこしい。

  足利高氏、お父ちゃん亡くなったばかりで、
  自分も体調悪いのに何度も出陣しろって催促されて、
  本当は足利家の方が位上なのにー、
  って弟の直義相手にめっちゃぼやきまくるなこの人。

  一族皆で京に行こうとしたら、
  妻子(はっきり言わないけど人質)鎌倉に残せって。
  従ったおかげで何にも疑われずに、
  六波羅裏切れたけど。

  内野・東寺・伏見での戦の後、六波羅で決戦。
  負けた側は一日でも逃げ遅れると野武士にやられる。
  光厳天皇に後伏見上皇を残して、
  北条仲時以下432人番場で切腹。


気になった用語
  
天役……臨時の雑税
  有徳……裕福
  色代……挨拶
  吹毛、秋の霜……剣(この時代カタナは小刀を指す)

  塩飽入道の辞世の頌(僧侶は和歌より漢詩)がなんか好き
    吹毛を提持して 虚空を截断す
    大火の聚裡に 一道の清風


鎌倉幕府の終焉
  
新田義貞と弟の脇田義助、
  綸旨もらった当初150人だったのが、
  三浦義勝(以前から義貞に志あり、って何?)とか、
  人質に残したはずの足利高氏の子も加わって20万、
  更に60~70万勢になる。

  3手に分けて合戦
 ①切通  大館・江田 ← 大仏貞直(大館破ったが討死)
 ②上袋谷 堀口・大嶋 ← 赤橋守時(高氏義兄。自害)
 ③化粧坂 義貞・義助 ← 金澤某 (討死)

  稲村崎で新田義貞が龍神に祈ったら海が干潟になった。
         
(わりと有名エピソードよね確か)
  鎌倉に攻め入って火をかける。

  嶋津四郎と名馬白浪、
  ここぞって時のために大事にされてたのに即降参。

  長崎為基と名刀面影、行方不明? 今に至るまで?
  長崎高重、新田義貞を狙ったけど寸前まで来て叶わず。

  北条泰家(執権の弟)自害したフリして京都へ。
  だけどついでに北条高時の次男を信濃に逃がした。
  長男は逃がして安心と思われてたのに処刑された。

  元弘3年(1333年)5月22日(ただし旧暦)
  葛西ヶ谷東勝寺ただ一ヶ所にて、
  北条高時、一族283人、他郎等含めて計870人以上自害。
  鎌倉全体では6000人以上。

後醍醐天皇返り咲き
  
占って先行き良さげだったし鳥取から兵庫、
  兵庫まで来てくれた楠正成が先導して東寺、
  6月7日二条の内裏に還幸。

  あと九州で探題とかが戦ったけど、
  1219年から1333年で北条氏の支配は終わって、
  建武元年(1334年)いわゆる建武の新政。

  なんだけど、

  北条氏の領地は皇族・公家の所領になって、
  武家は雑人のように扱われて、
  「どうして武家ごときが天下を支配していたのかなぁ」
  って公家ども驕り昂りまくり。

  一方で後醍醐天皇の中宮に皇太子相次いで亡くなる。

恩賞が相当に不公平
  
足利治部卿高氏、武蔵、常陸、下総
  弟 左馬頭直義、遠江

  楠河内守正成、摂津、河内
  名和伯耆守長年、因幡、伯耆

  新田左馬助義貞、上野、播磨
  子    義顕、越後
  弟 兵部少輔義助、駿河

  あんだけ犠牲も出して戦いまくった赤松氏が、
  郡一つだけって。

  ※全体的に批判と不穏ムードだし、
   本文中には無くて注釈だけど、
   領地(米)制度から貨幣制度に移そうとしていたかも。
   だとしたらこの時点ではかなりの英断。

  護良親王は比叡山に戻らず征夷大将軍に。
  足利高氏に恨みがあって討とうと兵を集めていたら、
  高氏から逆に「天皇を討つつもりだ」って讒言されて、
  鎌倉の足利直義に預けられて日も射さない土牢に。
     (後醍醐天皇そこまでやれとか言ってない!)

余談色々
  
火災で消失した大内裏の造営を決める
  神泉苑も修復したいな(空海vs守敏の逸話)
  北野天満宮の逸話が菅公生誕時からで長い。
  比叡山は菅公を鎮めて、
  真言宗は干魃時に雨を降らせて以降敬われてるんだって。

  藤原氏五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)
  八省(中務、式部、治部、民部、兵衛、刑部、
     大蔵、宮内)  


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