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これだけは小説ではない

 これまでどうにも書き表しにくかった逸話。

(文字数:約1000文字)


 私は彼を知らない。

 彼の姿も顔形も、
 自分の目では見た事が無い。

 彼の名前も、
 漢字でどう書き表すかも知らない。

 母の仕事仲間の息子さんであり、
 学年は私と一緒でも、
 通っていた中学が違っていた。

 私はただ母づてに話を聞かされただけだ。

 彼がどれほど利発そうで爽やかで、
 格好良かったか。

 両親からも兄弟からも同級生たちからも、
 どれほど慕われ将来を期待されていたか。

 彼の遺書がどれほど端正な筆跡で、
 理路整然と書き記されていたか。

 読んでいて母も納得してしまいそうなほど、
 詳しい文脈までは思い出せないけれど、
 その細密な思考に感心してしまったほどに、

 「死を選ぶ理由」を明確に述べていたか。

 しかしその紙をめくって見た裏面には、

 死にたくない
 死んでたまるか

 の2行が殴り書きされていたそうだ。

 私はその文字を知っている。

 その文字を書き記しただろう瞬間の、
 腕の痛みを、
 指先に込めた力の強さを知っている。

 「死を選ぶ理由」など本当には、
 存在しない事を、

 目にした側に聞いた側が、
 決して納得してはならない事を知っている。

 「あんたよりもよっぽど優秀で、
  人様のお役に立てそうな子だったのにねぇ」

 そう母は、
 至極当たり前な事実のように呟いた。
 それも同時に私の心をえぐり尽くした。

 残念だな。

 私は彼を知らなかった。

 生きてさえいたら、
 もしかして直接顔に名前を知り合えていたら、

 私たちは友達になれたかもしれないのに。

 その程度ではどうにもならなかっただろう事は、
 承知の上でそれでも、
 私たちには幾ばくかの可能性が、
 存在していたのに。

 死んでしまった後になって、
 自分の文章がどれほど誰かの心に突き刺さったかを、
 彼が知る術はない。

 申し訳無いが、
 犬死にだ。

 彼の死はいささかたりとも、
 美化されてはならない。
 裏面の殴り書きされた文字にこそ、
 敬意を払いたいのであれば。

 もちろん私は、
 彼の顔も名前も知らずにいたから言える。

 涙も流れないがそのおかげで、
 目は塞がれない。

 それでもひと粒程度の涙は滲む。
 私は出会いたかった。

 私が男子であれば、あるいは、
 親にとっての「恥ずかしくない子」であれば、
 私たちはもっと簡単に出会えていた。

 その場合にそれほど深い付き合いが、
 出来ていたとも限らないが。

 現実はあまりにも仕様が無さすぎるから、
 私は小説を書く事に決めた。

 せめてユーモアでも添えなくては、
 耐え難いほどにやり切れない。

 

 

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