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正しい夜明け/樹海の車窓から-9 #崖っぷちロックバンドHAUSNAILS

アイドルグッズと見まごうデザインの女子バンドのバンTが天井から吊るされた棚や、いかにも女のコが好きそうなアメリカのアニメのキャラクターグッズに彩られたピンクやブルー、イエロー、パープルの要塞のような棚、上手に使えば誰でもYouTuberか大森靖子になれそうなカラーバターが山積みになった棚、夥しい数の柔らかそうなシロクマや犬、猫、ウサギのぬいぐるみから小馬鹿にしたような笑顔を向けられる棚。DQNの車のミラーのところによくぶら下がってる大麻の形したやつみたいな、独特なお香のかおりがそこいらじゅうに充満した天井の低い店内は、有機的な無機物のジャングルのように無軌道で、商売っ気があるのかないのかよくわからないその混沌とした空気に触れる度、まるで地球が青い事を宇宙飛行士から送られた写真に知らされた時のように、おれは己の抱えた悩みのちっぽけさを思い知らされて不思議と安心した。

ヴィレヴァンには、キヨミちゃんともよく来た。

音大生――と言う設定だったキヨミちゃんは、いわゆる邦ロックとその周辺の音楽にとても詳しかった。ピアノ専攻なのにベースも弾けたし、まだ殆ど無名だったツネタダイキがやってたDTMPの『Prêt&Porter』が好きだと言った。おれは彼女ととても音楽の趣味が合うと思っていたが、彼女が好きだと言ったラッコタワーもビレッジマンズストアも椿屋四重奏も、よくよく考えたらキヨスミに薦められたものばかりだったっけ。

あの日もキヨミちゃんは嬉しそうに、あの独特な黄色いポップに彩られた棚からドミコの二枚目のフルアルバムを取り出して熱心に薦めてくれた。彼女の無邪気な顔と試聴用のちっさなテレビから流れ出す男性ボーカルの気だるげな歌声に絆されて、最終的にライブまで行った。

彼女は自分で買ったCDを出口でさりげなくおれに差し出し、「これ、うちにもう一枚あるから」と微笑んだ。
「あっ、でもあげるんじゃないよ、布教用だから! ちゃんと返してね? 次会う時に」
あざとい程にさらりと「次がある」事を既成事実としてみせた彼女は、真夜中に食べるジェリービーンズのイチゴ味のような唇をちょっと尖らせて、咎めるような表情を作ってみせた。

オトコを見せたいおれは視界の端に入り込むTENGAコーナーに何故か戦々恐々としながら、大福みたいなシロクマのぬいぐるみをお礼に彼女に贈った。


やかましい音楽を聴いている間だけは未来への漠然とした不安を忘れられた。
それでも、どんなに強いモルヒネを打っても、新しい音楽だけは作れなかった。


「なんだったっけ? 社長に出されたテーマ。新曲の」
ゴムのように伸びきったキヨスミがボソッ、と囁く。長い長い回想――体感的には。多分実際には十秒にも満たない沈黙だったのだろう――を終えたおれはその声に我に返り、慌てて元いた位置に戻った。キヨスミは何事もなかったかのようにその場から起き上がり、洋服を整えながら席に戻る。
おれはキヨスミがふわふわの黒いスカートを身体の線に沿わせるようにして両手でそっと撫でながらベンチに腰掛けるのを見届けた後、その突然の質問に一応答える。
「……愛と、狂気」
「愛と狂気か~!」二本目の煙草に火をつけたキヨスミが、いつもよりちょっとおっさん臭い声でやたら元気よく繰り返した。「なんもわからんねェ、俺にもわかんないハハハ」
心底わからん、愛も狂気も。当てつけのように繰り返すヤツの言葉におれは理不尽にもキレる。数週間前のあの日に、ジル社長が口にしたあの言葉を思い出していた。
「社長はお前にはあるって言っとったで! キヨスミには狂気があるって。ヤツはあの歳で充分エッグい経験しとるって」
脚を組んだキヨスミは場末のスナックのママのような素振りで煙草を指先で弄び、下唇を少し噛んだ。
「う~ん、否定はしないけど……でもわかんないよ、今でも、全然」
そのそっけない言い方と反するように、その目は虚空を泳ぎ、煙草を持った手首は緩慢な曲線を描いて曲がっていた。


「ねえ組長、」各々それぞれがとっぷり更けた夜空を見上げたり、空になった飲み物の缶を持て余したりするほかない時間に、少し間を置いてからキヨスミがおれを呼んだ。しかたねえ、と言った素振りをわざわざ作ってから耳を傾ける。
キヨスミはおれのリアクションなんか大して気にも留めていないように、虚空から目を逸らさずに言う。

「ねえ組長、愛なんてさ、定義するモンじゃない。そこにただ存在しちゃうもの。たとえ傍目から見て思い込みや依存なんかに見えたとしても、本人達が愛だと信じていれば愛だし、逆に本人達が愛だなんて思ってなくても、周りから見て愛でしかなければ、そこに存在するかもしれないのが愛なんじゃないのかなって」

キヨスミの声は子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと紡がれ、内容を理解しきる前に不思議と納得させられてしまうような妙な説得力があった。

「俺にも本当に未だによくわかんないけど、でも、愛に似た気持ちは、やっぱ抱いた事あんじゃん。認めてあげたいの、愛だったかもしれない感情を。お前も愛だったよ、恋だったよって。だからラブソングじみたもんばっか書いちゃうんかな。いつか大勢の誰かと共有出来たら、少しは報われんじゃないかって」

言葉の最後は、自問自答するように内省的に尻すぼんでしまった。恋だと認めたくないものが今のところ人生で一番の、一世一代の恋になってしまっているおれには、完全に自分への当てつけのように思えて、たいそうその言葉が尊大に聞こえて、おれは思わず条件反射のように反論を取り繕う。「でも、おれはそれを愛とは認めたくない。相手が遊び半分やったり、ましてや存在しない存在やったり、そんな一方通行の想いはただの思い込みや。それを愛とは言わん。それを、恋とは言わん」

半ば自棄のようなおれの反撃は、青よりも白い羽根に見える程の質量をもったまつ毛の奥のキヨスミの目によってねじ伏せられる。咎めるような上目遣い。あの日のキヨミちゃんのそれとは当たり前だが比べ物にもならない、突き刺してから傷口を抉るような視線だった。

「それこそさ、思い込みなんじゃないの?」
「あ!?」

引っ込みつかなくなったおれが握った拳は、虚しくCCレモンのペットボトルを握り潰した。少し残っていた黄色い液体が指の谷間を滑って床を濡らす。キヨスミは残ったミルクティを飲み干して、空になった缶を膝の上にのせると、雨上がりの湖の水面みたいな目をして言った。


「相手は遊び半分だとか存在しないヤツだとか勝手に想像して納得して、それでも組長は本気だったんでしょ? だったら愛でいいじゃない。そもそも何の基準も約束もない感情なんだからさ」


その時、店内の方から音楽が聞こえてきた。さっきまでヴィレヴァンとしちゃありえない程の無音に徹していたと言うのに、まるでタイミングを計らっていたかのようにその音楽は流れ始めた。

「「あっ、この曲」」

キヨスミとおれの声が重なる。おれ達は思わず顔を見合わせた。
その時流れた曲。先日の配信ライブ鑑賞会の時にも披露されていた、ザ・キャットテイルの曲の中で、おれが一番好きな曲だ。そしてどうやら、キヨスミもこの曲が好きらしい。

「……珍しく気が合うな」気まずくなって目を逸らすおれに、キヨスミは目の中の湖の水面を揺らして、本物のお嬢様のように腹が立つ程優雅に笑って見せた。
「フフッ、そうだね」


「あ、夜が明ける」九野ちゃんの声に顔を上げると、薄汚れた窓ガラスからうっすらと陽射しが差し込んできているのがわかった。あまりに非日常的な世界に放り込まれてしまったせいで時間の感覚も狂っているし、何よりここにいる四人のうちひとりたりとも眠たくもならなかったようだ。薄闇に慣れきってしまった目の芯が痛い。眩しくて目を細め手で覆う。

結局、曲を作るどころではなかった。もしこのまま九野ちゃんのスマホの充電が切れてしまったら、おれ達は一体どうなってしまうのだろう。

ぶり返す焦りを抱きながらもガラスの向こうから差し込む朝陽に一瞬目を閉じる。次、目を開けた時おれの視界に映ったのは――――。


三人が幻のように姿を消したヴィレヴァン入口の窓辺の景色と、さっきまでキヨスミがいた場所に腰を下ろしてこちらを覗き込む、ジル猫実社長の姿だった。


「おはよう、少年」

2018年設立、架空のインディーズレコードレーベル「偏光レコード」です。サポート頂けましたら弊社所属アーティストの活動に活用致します。一緒に明日を夢見るミュージシャンの未来をつくりましょう!