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"悲しみよ こんにちは"で測る自分の成長

言わずと知れた名作、"悲しみよ こんにちは"。
読書好き、文学好きではあるものの、なぜかこの本は食わず嫌いをして、読まないまま30歳を過ぎていた。

食わず嫌いの理由、それは勝手なイメージで、女性性が強そうだから。
ガーリー、ピンク、レース、ピンヒール…等々とは対極(とまでは言わずとも)にあった自分には合わない作家だと思い、手に取ることはなかった。

実際、文庫版の本編後に記載されいてる小池真理子氏の解説を読むと、小池氏が青春時代を過ごした1960年代末の様子として、以下の記載がある。

当時、サガンと言えば、「おんなこども」の読む作家の代表格だと思われているふしがあった。
…中でも、そういったことを言いたがるのは男性に多く、彼らの中では「サガン=少女漫画」のごとき受け取り方をして、偏見に満ちた物言いをする輩も少なくなかった。

悲しみよ こんにちは(新潮文庫)より

私が上記イメージを抱いていたのは2000年代。
40年の時を経ているはずなのに、何かしらの情報を元に当時の"輩"と似たようなイメージを抱き、食わず嫌いをしていたのだろう。

つい最近、女優の上白石萌音さんがこの本を勧めているのを知り、今更ながら興味を抱いた。彼女の紹介の仕方が魅力的で、読んでみたいという気持ちになったのだ。30代ともなれば、女性性が鼻につくこともなく読めるかもしれない。

いざこの本を手に取った私は、当初抱いていたイメージなど忘れて、結局は一気に二度も読んでしまった。

一度目の読了後に感じたのは、「この本を初めて読むには、年を取りすぎてしまったな」ということ。主人公である17歳のセシルが経験する心の動きは懐かしく、むず痒いものであり、たしかに私自身も体験したことのある感情たちであった。今でこそ「久しぶり!元気にしていた?」と迎い入れることのできる感情たちだが、当時この本を読んでいたら、さぞかし心をかき乱されただろう。一方で、過去の感情であるが故に、新鮮さをもって読むことができなかった。

名作と名高い作品を読んだ感想が、「自分が年をとったと感じました」だけとは、何かを見落としているのか、はたまた私の読解力が低いのか。なんだか気になり、すぐに再読することにした。

二度目の読了後に感じたのは、「やはり名作と言われるものには理由がある」。
一度目にはセシルの心の機微にばかり目がいっていたが、今回は視点を変えて大人たち(セシルの父や、その友人のアンヌ)に着目した。すると面白いくらいに、"過去"ではない"今"の私が理解できる感情たちが飛び込んでくる。彼らは40代という設定だが、10代の若者には得られない誇り、諦め、年を経ても色褪せない恋心、対抗心等々、そしてそれらを隠す鎧を持っていた。本作を執筆したサガンが当時18歳だったというが、セシルの感情以外に、取り囲む大人たちの感情も意識的に表現していたのかはわからない。それでも、読み手の立場が変わっても、それぞれが新鮮な気持ちで読めるというのは、やはり素晴らしい作品なのだと感じた。

特定の作品の受け止め方が年齢によって変化していくのを見るのは、自分自身を客観的に評価するようで面白い。村上春樹の"風の歌を聴け"は、17歳ごろに初読したときには心を鷲掴みにされたが、数年前に再読したときにはかつてほど心を揺さぶられなかった。青春時代から遠ざかってしまった自分に、寂しくもあった。

"悲しみよ こんにちは"も、今後40代、50代になって読んでみると、また違う発見があるのかもしれない。そしてその度に、自分の変化(老化ではなく成長と捉えたい)を楽しむと共に、過去の自分を可愛がりたいと思う。


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