吉野家 の 牛丼
“牛丼一筋300年♪ 早いの、美味いの、安いの~♪”
子どもの頃にこれを聴いて牛丼への憧れをずっと持っていましたが、私が初めて牛丼を食べたのは90年代になってから吉野家が札幌でも大流行してからです。
300円前後で食べれたなんて今となっては驚きですが、今日、10年以上ぶりに食べてみて、やはり美味しいなと…日本になくてはならない唯一無二なものだなと思いました。
私は吉野家では「牛丼大盛」しか食べたことがありませんが、子どもの頃に観ていた『キン肉マン』の影響もあり、特別な聖地のような場所です。
牛丼は、明治時代の1890年頃に牛鍋(うしなべ)を丼飯にかけた料理として始まり、当時は“牛めし”と呼ばれていました。
“牛丼”という名称は、吉野家を1899年に創業した松田栄吉さんが名付けたと言われています。
薄く切った牛肉と玉葱などを醤油などで甘辛く煮込んで、丼に盛ったご飯の上に乗せた和食です。
明治時代に誕生したファーストフードです。
牛肉は1874年には食べられていたと記録が残っているようです。
すき焼き、なべ焼き、しほ焼、刺身、煮つけ…にして食べていたようです。
文明開化の象徴として広まりました。
すき焼きに関してはその後、日本人の“ご馳走”として定着して、現代に至っています。
牛鍋は、明治時代の初期には味噌で味付けされていたようです。
鹿鍋や猪鍋の食法を受け継いだことから最初は味噌仕立てでした。
関東では牛鍋(うしなべ) 、関西ではすき焼きと呼ばれるようになりました。
牛鍋を丼飯にかけた 牛めし は、1890年代には東京で広まり、その後、1899年に創業した吉野家の牛丼も同じような料理で、当時は“牛鍋ぶっかけ”と呼ばれていました。
“庶民が好む 牛めし をもっと美味しく提供できないか”と追求し、白米にかける丼飯の形式はそのままにして、上質なバラ肉を使って味の完成度を高めました。
当時の 牛鍋ぶっかけ には、現在の牛肉と玉葱に加えて、たけのこや糸こんにゃく、焼き豆腐なども入っていました。
そして、上等な有田焼の丼ぶりに入れて提供したことから 牛丼 と名付けられました。
牛丼に紅生姜を添えた粋な色合いも当時の“江戸っ子”たちに好評だったようです。
牛丼は、下層階級の食べ物とされていましたが、関東大震災をきっかけにそのイメージは大きく変わりました。
震災後間もない頃に、市民の空腹を満たす為に多数の屋台や露店が出てきましたが、その中で多かったのが牛丼屋でした。
牛丼は安くて量があり、手軽に食べられる丼物として、上流階級の人にも食べられるようになりました。
関東大震災の後も東京大空襲などで大変な時期を乗り越え、東京のローカルフードだった牛丼は、吉野家が1973年からファーストフードとしてフランチャイズチェーンを展開したことで全国的に広まりました。
その後、松屋、すき家、なか卯、などが追随して牛丼をメインに据えたメニューで展開していきました。
現代の牛丼のルーツ、吉野家です。
あぁ~おいしい♪
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