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14.共育~この子らを世の光に

北海道石狩市からアメリカに移住した中学生であり、物凄い才能を持ったドラマーのYOYOKAさんをご存知でしょうか。

8歳の時にレッド・ツェッペリンの「Good Times Bad Times」を演奏した動画が世界的に注目されて、名だたる大物ミュージシャン達から評価され、レッド・ツェッペリンのシンガーのロバート・プラントさんまでもがその実力を認めました。
 
日本を離れる決意をした理由は、ドラマーとして世界で挑戦する為だけではなく、学校生活に馴染めなかったことも一因としてあるようです。
 
1つの答えが最初から決まっている学校教育に疑問を感じていたようです。

確かに、基礎学習だけを見ても、日本のスタイルは“4×9=□”というように、1つの答えを導き出すのが普通ですが、海外では“□×□=36”など、何通りかの答えを出させるものが一般的になっています。
 
“事実”や“型”を答えさせるか“どうしてそうなるか”を答えさせるかの違いです。
 
そして、何事も“選択肢は1つではない”という海外教育は、社会で生活する大人になっても役立ちます。

個人に考えさせ、それぞれが意見を述べやすくし、他者の力を借りながら問題を解決していく……これこそが実社会で生かせる“共育”です。
 
今の時代はググって簡単に情報を検索できる時代なので、記憶力が良くて暗記が得意でも、社会で生きていく上では大して価値がありません。
 
そして、既に1つの答えが用意されている計算問題だって、コンピューターに任せれば一瞬で解けます。

それをわざわざ、日本の学校では小中9年かけて、コンピューターと同じように解かされることになります。

もう少し何か、教育の中で良い時間の使い道はないかなとは思いますが…。
 
とにかく、これからの時代は、得た情報や知識をどのように自分の頭で処理して、知恵やアイディアに繋げていけるかが重要になってきます。

これは、なかなか学校では教われないことで、自分で鍛錬するしかありません。

記憶力や暗記とか計算力に価値がないと書いてしまいましたが…誤解を招いては困るので……、日本の現状の学歴社会では何よりも大事なことです。
 
小中高校でどれだけ暗記できて、どれだけ速く計算ができたかで、その人の将来、人生が決まると言っても過言ではありません。
 
学歴社会は、日本の伝統文化で、本人の能力や実績、人格に比べて、学歴の方が重視され重宝されることです。
 
もちろん、全ての企業がそうではありませんが、大手の企業になればなるほど今でも根強く残っていますし、やはり、学歴によって生涯の収入に差が出てくることは間違いなさそうです。
 
とても恐ろしい話です。
 
だから、今も昔も、お金のある親は子どもに“勉強しなさい”と口うるさく言って、塾などに通わせますし、その子どもは“どうしてこんなに勉強しなきゃいけないのだろう”と泣きながら考えるわけです。

そして、何とか乗り越える子もいれば、そのチャンスを棒に振る子もいます。
 
自分でやれる子は何もなくても自分からやります。

お金が足りてない家庭で塾などの習い事に行かなくても、そういう子は誰よりも優れた結果を出します。

向き不向きというのはありますから…学校のこういった勉強が向いてない人だっていますし、それができなかったからダメという話にはなりません。

でも、社会はまだそうではなく学歴を求めてくるというだけのことです。
 
とにかく、前述したように、デジタル化していく社会の中ではあまり意味のないような暗記や計算問題などに重点を置いて、必死にやり続けるわけです。

その結果、その点数が上がると学校では“優秀”とされ、学歴に繋がります。
 
YOYOKAさんは音楽と道徳の授業が特に嫌いのようです。
 
誰もが認めるドラマーがどうして音楽を嫌いなのか…… “決められたやり方で正確に演奏することが求められ、自分の好きなようにアレンジして演奏できないんです”と語っています。

道徳の授業では、クラスメイトが自分の考えを発表して“良い意見だね”と言って拍手し合うけど、でも結局、答えは最初から決まっていて、最後に先生が1つの答えに導こうとするんです”と言います。
 
答えが1つとは限らない音楽や道徳もそうなってしまっているのですね…無念です。

教師や学校の想定にない演奏や考え方は、なかなか受け入れられないと感じ、窮屈に思っていたそうです。
 
教育は国作りの基本です。

高いモラル、高い協調性、生真面目さ、高い当事者意識…。

日本人が誇りにしてきたこれらの特性は、この教育制度があったからこそのものです。

過度な協調性以外は、私は好きですが…。
 
しかし、協調性は時に個性を奪い、生真面目なことは場合によっては思考を制御します。
 
“教育”は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせる為に、心と体の両面に、意図的に働きかけることです。

教育を受ける人に知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることです。
 
これは“ひとりひとりの国民の人格形成”と“国家・社会の形成者の育成”の2つが目的になっています。

急激な変化を続ける世界の中で、時代に見合った教育をせずに、今まで通りのたった1つの決められた答えに導くような教育では、国が衰退していくのも仕方ないのかもしれません。

多様性とは無縁ですから。
 
暗記とか計算が意味ないということではなく、最低限のことは頑張って習得できるなら、した方が良いと思いますが、教育を総合的に見た時に、重点を置くべきは他にあり、そして、そんな学力の有る無しで、一生が決まるような学歴社会は、そろそろ終わりにしないと、真の素晴らしい人材が今までのように可能性を潰されてしまうか、それがイヤな人たちは国外に脱出してしまうと思います。
 
学校も福祉施設も人員などの都合で、すべての子どもの個性を受け入れる余裕を持つことは、なかなか難しい状況です。

不登校、ひきこもり、教育格差、詰込教育、学力低下など様々な社会問題は増え、いじめはなくなりません。
 
個性を奪われ、自由に、楽しく生きることを拒まれ、新しい価値を生み出すことはなかなか難しいです。
 
未来を担う才能ある子どもが日本を去り、違う国でのびのび生きる…とても素敵なことですが、日本人としては、残念と言うか寂しいと言うか…複雑な気持ちにもなります。

今の時代に、YOYOKAさんほどの実力があったら、日本を拠点にしていても、グローバルな活躍は可能だったはずです。
 
“この子らを世の光に”
 
ここからは少しだけ、半世紀以上前のことを振り返ってみます。

1963年…滋賀県で重症心身障がい児を受け入れる病院の機能を持った児童福祉施設が誕生しました。

全国で2例目、西日本では初めての重症心身障がい児施設、びわこ学園です。

創設したのは糸賀一雄さんです。

“社会福祉の父”とも呼ばれる人物です。
 
ちなみに1例目の施設は、東京都で小林提樹さんや島田伊三郎さんによって1961年に設立された島田療育園でした。
 
当時の日本では、重症心身障がい児は、医療法や児童福祉法の概念にも含まれずに、国から見放されていました。

これらの施設は当時、民間人が運営していて、法の適用がなかったことから、経営上、かなり厳しいものがありました。
 
その為、糸賀一雄さんや小林提樹さんを中心とした創設者たちは法制化されるように活動しました。
 
初めて法制化されたのは1967年で、医療法と児童福祉法によってでした。

6年…随分と時間が掛かりました。
 
糸賀一雄さんは、びわこ学園の前にも、戦後間もない大混乱の時期の1946年に、滋賀県に近江学園を創設し、戦災孤児や浮浪していた知的障害のある子や、家庭や学校で世話ができない重度の知的障がい児の発達支援も行っていました。
 
YOYOKAさんの件を読んでいて、糸賀一雄さんが50年以上前に残した言葉が今となっては障害云々関係なく、大きな力を持っているなぁと感じられたわけです。
 
“この子らを世の光に”です。
 
「この子らはどんな重い障害をもっていても、誰と取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。

人間として生まれて、その人なりに人間となっていくのである。

その自己実現こそが創造であり、生産である。

私たちの願いは、重症な障害をもった子たちも立派な生産者であることを、認め合える社会をつくろうということである。

“この子らに世の光を”あててやろうという哀れみの政策を求めるのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かせようというのである。

“この子らを世の光に”である。

この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障しなければならぬということなのである」
 
糸賀一雄さんは“この子らに世の光を”ではなく“この子らを世の光に” だと問題提起をして、世界から注目されました。
 
糸賀一雄さんはまた、重度心身障がい児も健常児と同じ発達の道を通ることを示しました。
 
“人の本当の平等と自由は、この光を光としてお互いに認め合うところに初めて成り立つ”
 
今となっては障害の有無は関係なしに、社会全体に響く御言葉です。

人間が互いに理解し、認め合い、そして、愛情によって支え合うという共生社会の実現が今は求められているわけです。
 
現状の国のシステムというか制度というか…国民性なのかな……、かなり厳しいのかなと思います。

現在、既に多様化し複合化した問題が社会の至るところにゴロゴロ転がっています。
 
そんな複雑な様々な問題を縦割り重視の固定概念に縛られた制度では、解決できないことは間違いありません。
 
世界全体のGDP(国内総生産)に占める日本のGDPのシェアは1994年には約18%あったのが、2020年には6%まで落ち込んでいます。

2050年に1.8%に縮小するという試算まであります。
 
2020年の日本の実質賃金はOECD(経済協力開発機構)の加盟35カ国中、22位です。

7人に1人の子どもが貧困状態で、15〜39歳の死因の第1位は自殺です。
 
これが先進国から脱落寸前の現在の日本です。
 
大人が教える“教育”から、大人も一緒に成長する“共育”への移行が必要と考えられます。
 
いや、移行というよりはバランス良く両方が必要です。
 
“共育”は、親や教師、学校など教育権を持つ主体だけでなく、地域住民や一般企業などの多様な立場や領域の人や組織が連携して教育を担うこと、あるいは教育、養育、指導を行う側と受ける側が共に学び成長すること等を意味する造語です。
 
画一的なこれまでの教育は、標準的な人間を作り上げてくれるから、基礎学力を身につけるには必要だと思います。
 
しかし、それ一本化の状態では、今後も、未来を担う才能ある子ども達が日本を去っていくということが繰り返されるかもしれません。

平均的で多数派の集団が主流派となって、正しいとされる世界は本当につまらないものですから、真の凄い人たちが去りたくなる気持ちはわかります。
やはり、ここも選択肢は1つではないということです。

“教育”だけではなく“共育”だけでもなく、調和が大切なことなのだと思います。

バランスは凄く大切です。

答えは人の数だけあるので、自分の頭で自由に考える力を育むことが必要です。

こんなシンプルで当たり前のことを実践するだけで、教育のあり方、国のあり様が変わるのかもしれません。
 
YOYOKAさんは “月に1回くらい、子どもが大人に教える授業があったらいいなと思う”と言います。

子どもに教える前に、まずは大人が新しいやり方を自分の頭で考え、子どもと一緒に学び、成長し、新しいやり方を創る…それが“共育”です。

子ども、大人、若者、高齢者……学校や実社会、そして地域…。
 
世代や居場所の垣根を取り払い、相互に受け入れ、一緒に未来を切り拓くことが、共生社会の形です。

共生社会に必要な教育は“共育”ではないかと思います。

最後はYOYOKAさんの夢…。
 
“ドラムは言葉や人種の壁も超えられるコミュニケーションの手段です。

ドラムで世界中の人たちに、元気や勇気を届ける存在になりたい。

日本で、才能や個性を発揮できず、困っている人たちも助け、教育を変えていきたいです。”
 
何とも素晴らしい……YOYOKAさんは、きっとレインボーチルドレンです。


写真はいつの日か…札幌市西区の石屋製菓で撮影したものです。

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