不登校3兄妹の母の話
長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは、不安定登校・不登校の日々だ。
学校に行きたい!と言い出す兆しも、家でクリエイティブなことはじめよう!という意欲も、感じられない。今日も惰性的に3兄妹がリビングで過ごしている。
学校と言う社会からはみ出した我が子たち。そんな子を育てた親は、一体どんなトンチキ母ちゃんだ?と思う人が居るかもしれない。
私は、ごく普通の、そこらへんにいる人間だ。
天才的な才能もなく、世捨て人でもない。人が好きで、苦手な人もいて。仕事して、子育てして、家族を思って、周りの人を思って、忙しく生きている、そんな人。
親と自分と子ども
私は我が子を見ていて思う。よく学校休めるな、と。
『不登校』なんて、自分の学童期には無かった言葉だ。『登校拒否』は、あったか。でも私は学校に通った。
それ以外の選択肢があるなんて、私世代の誰が思うだろう。考えたこともなく、当たり前に学校に行くもんだと信じて疑わなかった。
休みたい日はもちろんあった。体温計をストーブに当てて、42度なんてありえない数字を叩き出していまい、慌てて服で覆うなどの工夫を重ね、37.8度あたりの数字で親に交渉してズル休みした。その程度だ。
1日目は楽しい。2日目は罪悪感。3日もすれば、学校行こっかな。と。
親も昭和を生きた人間だ。私はバブル期に生まれていた。
「やることやれ!締めを合わせて、それから休め!」と、父の背中から学んでいた。
親の言うことを聞いて、勉強したし、本を読め、と言われれば読んだ。
親が子を思って言ってくれることなのだから、聞いといて自分に損はないだろう、と思っていた。
就職先と結婚相手だけは自分で決めよう。それ以外は、親のいう事聞いといたらいいわ。と考えていた。
そして私は、大学を出さしてもらい、就職し、結婚した。
なんて、良い子だったのでしょう!!と自分に驚く。
自分が不登校児の親をしていて、
「我が子たちよ!!どうして親にそんなに心配をかけるのか!!」と叫びだしたくなる事は数えきれない。
私の親が、こんなに子育てに精神をすり減らしていたとは到底思えない。なぜなら私は従順だったから。
不登校どころか、グレたこともない。
制服のワイシャツは第一ボタンまで留めて、当時流行のルーズソックスは履かず、紺のハイソックスを貫いた。髪はビーチボーイズの広末ショートカット。
門限も必ず守った。お祭りの夜だって19時までには帰宅した。
土日も、基本は家族の時間を大事にしたい、と特段の理由がなければ誘いも断っていた。
つまんねぇ奴だな、と書いていて思う。しかし、私はそれで良かった。私の中の内なる世界は、その時間で醸造された。
全て親の思い通りには行かなかったこともある。私はとても運動が苦手だ。
スポーツ好きの父に「どんクサっ!!」と呆れられたことは数知れない。
しかし、あの時代だ。女の子だし、まいっか。と色々免除された。
スパルタに野球の練習を受ける弟たちを横目に、私は庭で犬と戯れていたのを思い出す。犬と会話して、草花を観察して、風を感じた子供時代。
そうです。いわゆる不思議ちゃんです。
学童期は、『不思議ちゃん』、高校時代は『白い変態』というあだながついていた。私は好意的に受け止めていたが。
自分が自分を知る時
私は、大学に通うために上京した。初めての一人暮らし。夢と希望に満ちていた。
しかし、一人暮らしをして、衝撃の事実に気が付いた時に、震えた。
「裸一貫じゃねぇか!!」と。
自分を守ってくれる家族が近くに居ない。友だちもてんでバラバラ日本中に散ってしまった。ここで私は、私の力で生きなければならないのか!何も持っていないこの私が?!そんなこと出来るのか?と。
ふわふわと不思議ちゃんをやっている場合でも、白い変態と呼ばれるわけにもいかなかった。
自分と言う人間をアピールして、正常で安全であると認識してもらい、選んでもらわなければ生きていけないと思った。
初めてバイトをした。
丁寧に仕事をしていたら、「遅い!」と言われ、速く仕事をすれば「雑だ!」と言われ混乱した。次々降りかかるタスクを言われた順番通りに覚えてやっていたら、「言われたことをすぐやって!それは途中で良い!」と言われた。もう混乱以外の何もない。こんなにも無能だったか、自分よ。と思った。
同時期に、自動車の運転免許を取った。教習の終盤、適性検査の結果を返されて驚愕した。『協調性』は群を抜いて高かったが、『決断力』がありえないほどに低かった。そのグラフをみて、「うわぁ~。ほんとだわぁ~。」と思ったし、「決断力のねぇやつが、運転しちゃダメだろ。」と思った。
そんなこんなで長らくペーパードライバーをしていたのだが、子どもが生まれて運転を強いられる。こんなに熱でぐったりした子をチャリで病院に運べない。おむつ、トイレットペーパー、洗剤、夕飯の食材、そして子ども。重すぎてチャリではとても無理だった。1人2人と子どもが増えるにつれ、車を運転するしかなくなった。
しかし、私は運動神経が悪く、決断力が著しく低い。運転がヘタクソ過ぎた。車のボディーをこすりまくって、「へーローさん(私の事)・・・。」と夫にため息をつかれまくっていた。
それでも、私は子どもたちと生活を守るため運転した。
狭い道ですれ違いが出来ない。すぐにギアを「P」に入れ、運転席を降りて、相手の車に「すみません、私、100%ぶつけます!後ろ見るので下がってください!!」謝りまくって、道を譲ってもらった。
曲がり角で鋭角に曲がりすぎて、電柱に車体があと2センチでこする!という場面では、そこら辺をあるいているおじさんを捕まえた。「すみません!運転できますか?運転変わってください!この車、なんとかしてください!!」
とんだトンチキ野郎でした。群を抜いた協調性が功を成し(?)私は数々の死闘を潜り抜けていた。
子育てから思う自分
私は、あまり感情的になって我を失うことはない人間だった。怒りに任せて大声を出したり、暴力なんてもっとしない。
子どもの頃から、現状を俯瞰してみる、どこか冷静な自分がいた。
大声をだして怒っている人に対して、(どうしてあんなことになるのか?そんなに大声出さなくても聞こえるのに。威圧するより、話をした方が問題解決につながると思うけど。危ないから、離れよ。)と言うようなことを、中学生の頃から考えていた。
しかし、その他人の怒りが自分の言動によって引き起こされようものなら、数週間に渡って落ち込んだ。相手は忘れていても、顔をみれば思い出す。似た状況で思い出す。何度も場面を反芻し、あの時どうすればよかったか、を熟考し、傷をえぐる作業を脳内でしていた。
それでも、自分が怒ることは少なかった。
子どもを産むまでは。
子どもを産んで、私はずいぶんと変わった。
まず、出産で『獣』になった。『人』である意識を捨てなければ産めたものではなかった。そこでよもや女でいられる訳がない。
育児でも私はかき乱された。いけない事、危ない事、奇妙奇天烈に理解できない事の連続だ。不登校だけじゃなかった。生まれてからずっとクレイジーな子どもたちだ。
そして私は、タガが外れたように怒った。大声をだして。正気の沙汰とは思えない絶叫も両手の指の数では足りない。完全に、今までの自分が壊れた。変革した。
夫は、恋人時代に「へーちゃん」と私を呼んでいたが、出産を機に「へーローさん」と名前をフルで“さん”付けで呼ぶ。脅威なのか、敬意なのかは聞かないことにしている。
そんな波乱の我が子幼少期を経て、子どもはみんな学童期。絶賛の不登校中だ。
今、私は子育てを通して、自分の中にイノベーションを感じている。
不登校をきっかけに、沢山本を読んだ。『平等と公平』『発達障害とは』『指導と支援』『哲学』『栄養学』『生きずらさ』『良く生きるとは』
自分の中にテーマを持って、日々研究している。
『悩みが解決できないのは、自分の中に解がないから。解を得るには、知識と経験が必要だ』というのが、私の見解だ。
というか、すがるものもなければ、やっていられない。先人たちよ!私の解を本に書いていてくれ!!とすがって読んでいる、というのが、まぁ、正直なところだったりする。
知識を得たとて、経験はすべての事象が初体験だ。太刀打ちできない。
不登校だって?!え?あんたも?うそだろ、あんたもかい?!とあっという間に3兄妹不登校だ。
そう簡単にはいかないもんだ。
しかし、知識に救われることもたくさんある。「行動にはそれを起こさせる背景があること」や、自分の傷つきへの対処法として、「本能、感情、理性を使い分けること」などは、自分から取りに行かなければ気が付けなかったことだ。
人は、日々成長、日々勉強だなぁ、と思う。
自分への教訓
自分は今、変革期。イノベーション中です。
ときどき、ロード状態バグります。いきなりのシャットダウンとか超あるある。再起動できると信じること。
過去と他人は変えられない。と肝に刻み込む。
学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。