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親の抱える「問題」の問題

戦友(不登校を一緒に戦ってきたママ友)の考え方、問題の捉え方に沢山救われてきたことがある。その一つに、この『親の抱える問題の問題』というものがある。

パッと聞いただけでは、理解できないロジックだと思う。
けれど、ロジックを解いて理解すると、確かにそうだよな、と思う。

親の問題について

子育てをしていて、「躾がなってない」とか、「親が親なら、子も子だ。」とか、「この親にして、この子あり」と、色々とネガティブな側面で親子を揶揄されることがある。

我が家は子どもが3人不登校になり、パニックになった母は、自分の育児を呪ったこともあった。
自分がしっかり躾けなかったせいで、この子達が不登校になったのではないか、
どこかで育て方を間違ったのではないか。
母が至らないが為に、我が子たちが生きにくくなっているのではないか、ごめんね。本当に、申し訳なかった。と子どもを思い、自分を責めに責めた。

育児を振り返って、思い当たる節も確かにあった。幼少期に子どもの”集中”している姿が嬉しくて、時間の許す限りに遊ばせた。危ないことも、汚いことも、命に関わらない限り”挑戦”と捉えて応援してきた。あまり制限をかけてこなかった自覚はあった。

失敗も大いに受け入れた。母としては、「どうしてそうなった?!」と怒ることも、困惑することも多々ありながら、子どもにとっては、それも”学びだ”と、最終的には受け入れて来た。

そのツケが『不登校』という形で、今表出しているのだろう、と思っていた。

『不登校』ということを、視野を狭く否定的に捉えていた。
『社会に適応することが出来ない、可哀想な子。』と。

しかし、『学校へ行かないことも、一つの選択肢』と考えれば、今までの育児が活きていることになる。

我が子たちは、自分で『選択して、自分の道を開拓している、挑戦している』と捉え始めた今、”不登校”という状況は全く変わっていないのだが、母の心持ちはだいぶ違う。

ここで、【親の抱える問題の問題】というテーマに戻るのだが、『不登校』が問題なのではないことがご理解いただけただろうか。

不登校をキーにして、親の抱える問題「育児に対する自信の無さ」が問題に上がる。ちょっとややこしいので、後者の問題を課題に変えようか。
子どもの生きづらさが、親のせいなのだと思ってしまうことの問題に、解決すべき課題がある。

もっと噛み砕いて言うと、親自身に「責任があるだろう!」と責めるのは違うんだよ、と言う話だ。誰も”人間”そのものや、”人格”を否定することは違うと思う。

その人に問題があるのではなくて、その人が抱える問題に課題があるよ、と言う話だ。【親が抱える問題の問題】つまり、【親の抱える問題が課題】と言うことだ。

福沢諭吉が「罪を憎んで人を憎まず」なんて言っていたが、その考え方に近いと思っている。

x(旧ツイッター)でのバズり

私は、Xで不登校についてツイートしているのだが、ある投稿が45万インプレッションされ、コメント数、リプライ数も跳ねたものがあった。

それは、長男のたこが新入学した中学校に、私服で教科書を取りに行ったが、私服だった為に、「決まりなので教室に入れません」と先生に言われ、友達に会うことが叶わなかった。と言う内容だった。

コメント欄は荒れに荒れた。マーケティングも兼ねて、読み進めて行くと、意見が二極化していることに気が付く。

「制服は着るべきだ」と、「教育ってなんだろう」と言う二極。
驚くべき比率は、べき論者8割。慣例を疑ったり、真意を考えようとする人が2割。

べき論者の意見を読んでいくと、

  • 決まりなんだから、守るべき。

  • 和を乱すやつは、迷惑。

  • 防犯上の理由。

  • 決まりを守らせないバカ親

  • 発達障害の子

  • モンペのせいで、教員が辞める

など言いたい放題だった。マーケティング観点から見て、こんな土俵違いの議論を持ち出す人間が8割か、と日本という国に疲れてしまう。

異端は弾かれる、というか。慣例、常識に正義を置いて、思考を停止している人が多いなぁ、と思った。
”赤紙”や”非国民”の歴史を歩んできた祖先から繋がって、今を生きている日本人だからだろうか、なんて思いを馳せてしまう。

防犯上の理由ととく人に、「”人”も見ず、制服で生徒を判断するって、逆に防犯上危険なことになり兼ねませんか?」と返したいが、労力の無駄なので、やめた。

後半3点に於いては、しっかりと傷ついた。
開けてはいけない箱を開けて、ハエと蛆虫がわぁぁ!!と飛び出した後悔と不快感を覚えた。”BUZZ”の意味を身をもって体感できた。羽音が脳内でざわめいて、何も手がつかない。自分を取り戻す為に焚き火に出かけ、正気になるまで1日かかってしまった。やってくれる。

ここでまた、【問題の問題】という観点に戻ると、見えてくる。何が課題なのか。

私は確かに至らない親だろう。しかし、その時の精一杯の最善の選択をしながらやって来ている。子どもに対して誠実に。先生に対しても丁寧に。対話を重ねて、歩み寄り、WIN-WINになるように動いていきたいと思っている。WIN-LOSEを求めて戦っているのではない。

バカ親なんて言われる筋合いは無い!と感情的になってしまうが、1万歩譲って認めて、私自身が抱える問題に課題があるのだろうな、と思う。私を責めても、至らない現実は変わらない。

発達障害については、本当に誤解している人が多く、どこから説明すれば良いやら、と途方に暮れてしまう。
”障害”という言葉を、”その人自身の至らなさ”と捉えている人が多すぎる。
人間には誰にでも得意と不得意がある。社会で生活する中で、”環境側”に障害があります、という考え方がまだまだ浸透しない。

ちょっと変わった事を言ったり、行動したりすると、「あぁ、発達障害ですね。」と「自分より下等な障害者のあなたであれば、そうしても仕方がないのでしょうね」というニュアンスを孕む。
まさに、人的環境が、障害になっているパターンだ。そう発言している人そのものが、社会に苦しむ人の障害になっている。

今の世間に染みついた認識をそのまま流用するならば、”障害に苦しむ人を苦しめる人”を”障害者”と呼んでもらいたい。

なんびとたりとも、人の”尊厳”や”人格”を否定することは許されない。
制服を着るという『きまり』以前に守らなければいけない『きまり』ではないのか?そんな基本のきを発音する前の口の形も作れないやつに、何が言えるというのだ?
お話にならないとはこの事だ、と唖然とする。

もう一度言うが、これが私のXの8割だった。日本という国の象徴にも感じる。
これからを生きていく柔軟な子どもたちに、こんな虫だらけの社会を提供するのは、大人として本当に忍びない。

母さんは、母さんのできることを一生懸命やるよ、と心の中で強く思っている。

残り2割の希望

『制服を着なかった為に、教室に入ることができなかった』という事実に、疑問を持ち、異議を唱える人たちが2割いたのが、大変な救いとなった。

学校って、子どものためにある場所ですよね。どんな服であっても、教育を受ける権利はあるはずです。とか。
公立校の制服は「標準服」であって、推奨されるもので強要されるものではありません。とか。
文科省が自立や主体性を説いている現代に置いて、何をもってそこを育てるのでしょうか?とか。

私も同様に疑問を持っている。

しかし、これは、『経験』したからに他ならないということは自覚している。
自分の子が『不登校』になり、『不登校児の親』を経験したから、考えることができている。

不登校にならなかったら、当たり前に制服を着て、制服を着てこなければ、学校に入れないんじゃない?きまりなの?へぇ、それならきまり守ればいいんじゃない?

とサラ〜っと受け流して何も頭を使わない生活を送っていたに違いない。

だから、”困った”とか”苦しい”という経験を学校や社会に対してしてこなかった人に、この『考える』という行為をさせることが大変に骨が折れる。

どんなに懇切丁寧に説明しても、
「お気持ちは分かります。しかし、きまりです。」
と結局10−0の話になって、WIN-LOSEになってしまう。今までの話し合いはなんだったんだ?聞いてましたか?とついつい戦闘態勢になってしまう。

しかし、戦ってプラスに転ぶことはまず無い。親が感情的になって、学校に通う子どもに有利に働く訳がない。先生だって人間だ。感情で動く生き物だ。我が子が気持ち良い環境で過ごすためには、先生にも気持ちよく働いて貰わなければならない。落ち着け、自分。何しに来たんだ。考えろ。といつも深呼吸をする。

学校と話し合いをしても、社会の8割が虫のような思考をする日本で、交渉を進めることは大変に難しい。学校に個人のあなたがどれほど歩み寄れますか?学校は1ミリも動きませんけどね。という結論になる。

そして、「嫌なら他へどうぞ」と。
公立が?”おおやけ”がこれで良いのだろうか?と強く思う。
子どもが教育を受ける機関が学校で、公立は地域の全ての子どもに開かれているはずだろう?と思う。私立やフリースクールという選択肢が持てない子どもにも、公立は開かれている。だからこその公立校だ。

思いのある先生に巡り会うのは大変難しい。経験年数ではない、”人間”の深みだと思う。不登校3兄妹の親として、いろんな先生とお話をしてきたし、いろんな人と関わってきた。その中で感じていることは、本当に理解してくれている人、理解しようとしてくれている人は、X同様2割が良いとこだ。

その場しのぎに丁寧にかわされたり、理解しましたという言葉と裏腹な言動に傷ついたり、そんなことばっかりだ。

子どもたちが大人になって社会に出る頃には、自分の頭でしっかり考えて結論を出す日本人の割合が増えていると良いな、と思う。

そして、我が子たちには、”自分”をしっかり持って、”人”も尊重できる、気持ちを通い合わすことができる大人になって欲しいな、と願っている。

母として、今この子たちに何をしてあげられるだろうか、この子達の抱える問題から見える課題はなんだろう?と考えている。

自分への教訓

  • 自分を変えることはできないけれど、自分の抱える問題はきっと解決に導くことができる。

  • 子どもたちが生きやすい環境を作ることができるのは、大人の理解。学校が子どもファーストでありますように。

  • 虫の羽音に思考を奪われることなく、真意を考えるには『経験』が必要だ。


学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。