見出し画像

受け止めてもらう喜び

ある日、近所を車で走っていると、
ワンちゃんのお散歩をしていた、友人でもある先輩ママが歩いているのが見えて、車を一瞬止めて、声を掛けました。
彼女は、顔をほころばせて寄ってきてくれ、
慈愛を込めた声で
「聞いたよ~… 大変だったね…」とじっと見つめ、微笑みかけてくれました。
この2年ほど、彼女とゆっくり時間を取っておらず、
夫の病気のこと、他界したことを彼女にどう伝えようかと考えたり、多分もう伝わっているだろうと予想していたりしていたのですが、
彼女の本当に気持ちのこもった言葉の響きに、
思わず、感謝いっぱいになり、甘えたくなってしまって、涙ぐみました(今でもあのシーンを思い出すと泣ける)。

数日後、彼女から連絡があり、
一緒にお昼を食べようとおうちに招待してくれました。
喜んでお邪魔すると、特製の料理とデザートが!
いつも美味しい彼女の手料理なのですが、愛のこもった料理をいただけることがこれほどまでに胸いっぱいになるとは思いませんでした。
やっぱり、私たちは愛を主食にしているのですね。
たわいもない話から、子どもたちの話、夫の話、友人たちの話…
笑って笑って時に泣いて、泣き笑い、といった、最高に幸せな時間でした。

夫が肉体を卒業してしまってから、
何人かの友人と食事に出かけたりして、夫のことも話す機会があります。
大変だったけれど、彼が見せてくれた深い深い愛を受け取れたことは、家族みんなで本当に奇跡だったと話し終えてからも、
「大変だったね」「辛い話を伝えてくれてありがとう」という反応がやってくることもあって、
なるほど、やっぱり人は、見たいように見るのだなあ、
とエゴの仕組みを再認識するような思いでした。
まさしく、私もしがちなことなのです。
自分が持っている概念に当てはめて、その証拠を探すこと。
思い当たる節がありすぎて、何やら、気恥ずかしくなるような思いです。
え、あのさ、分かち合いたかったことはそれじゃなかったんだけど…
などと、つい反応したくなってしまうエゴには、ちょっと横に退いていただいているうちに、誰がどのように見るのも、そのままで良いような気がしてきました。それを修正する必要もないし、慌てて反応して私のエゴを発動する必要もありません。優しく眺めていて良いのだと感じました。
横で、夫はふんわり微笑んでいます。
何かを自分の物差しで測り、決めつけ、先入観で見てしまう私も赦したい。真の目で、真実を見ていきたい。

そんな経験があったからこそ、
今回のあたたかいランチで、彼女が私の話をそのままそっくり受け取ってもらえる体験に、
伝わるって、こんなにも喜びなのか…と想像以上の嬉しさで心がホクホクホカホカするのを感じていました。
彼女がしてくれたのは、
「そうなんだねー」「そうだったんだねー」と耳を傾け、
ジャッジせず、心を開いて受け止めてくれ、
私に美味しいごはんを食べさせてくれたことです。
彼の死に際して、私たちが受け取ったものをただ一緒に追体験してくれ、
その後の紆余曲折の話には、乗り越えたことを喜んでくれました。
人と人をつなげるのは、
テクニックや形ではなく、やっぱり、在り方や愛ですね。
そして、つながったところには、間違いなく、癒しがありました。

彼女の愛が具現化したお土産のキッシュとかぼちゃケーキは、
私だけではなく、子どもたちの心とお腹を満たして、
さらに愛は広がって広がっていったのでした。

受け取ってもらうって、
してもらうと、こんなにも嬉しい。
誤解なく分かち合えるって、それだけで、こんなにも癒される。
与えることと受け取ることは、同じこと。
愛を与えることと、愛を受け取ることは、同じこと。
つまり、
真に与えることも、真に受け取ることも、
【つながる】ということなのですね。
真につながるとき、私たちには一気に同期され、流れを共有し、
喜びを味わい、自分の中の真実を実感します。
それは、この世のどんな物もどんな事も運んでくれないような、何とも言えないふつふつ溢れる喜び。

お互いのエゴが邪魔して、こんな風に味わえないことも多いけれど、
きっと、自分のエゴの眼鏡を外すことができれば、どのような状況でも、このような奇跡を見ることはできるはず。
彼女のくれた喜びを勇気にして、
形や行いを超えたところにある、兄弟姉妹の真の愛を
感謝して受け取っていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?