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2023/10/04(水) 自己検閲

インターネット上に自分のネガティブな心情を綴ることはやめたほうが良い、という記事を読んだ。投稿を読んだ他人に悪い影響を与えるし、その悪い影響を与えるようなことを書く人物だという評判が自分に返ってくることもあるからだというのがその理由だ。

リディア・デイヴィスが"Thirty Recommendations for Good Writings Habits"というエッセイで似たようなことを言っていたことを思い出した。リディア・デイヴィスのエッセイを自分なりに解釈すると、自分の書いたものを検閲することは自分のことについて他人から干渉を受けないということと、公にすることで干渉を受ける可能性があるということの対立だ。永井均なら、遺構焼却問題というだろうか。

リディア・デイヴィスは検閲をしたほうがよい理由もあれば、しないほうが良い理由もあると断ったうえで、自分で自身の作品を検閲するに足る理由をふたつ挙げている。ひとつは、他人を傷つけたくないから、とりわけ自分の近しい人を傷つけないからだ。カール・オーヴェ・クナウスゴールのように、それでも自伝に近い「小説」を出版する人もいる(余談だが、クナウスゴールの小説を「薄っぺらな回顧録」と一刀両断していた)。もうひとつの理由は、わいせつなものや暴力をこれ以上増やすことに加担する理由はない、世界にはそういったものですでに溢れているから、というものだ。

検閲しないほうが良い理由は、不特定の読者を恐れてはいけないということ、作品が売れないことを恐れてもいけない、というものだ。「こんなことを言うと格好悪いから」という理由で自分が書いたものを検閲するのはおよしなさい、ということだろう。

検閲するという言葉は何を意味しているのか。それは、単に不快なもの、有害なものを削除するということだけではなく、他人が変だと思ったり、馬鹿げていると思うだろうものを削除する、あるいはそういった表現を控える、という意味でもある、と加えている。これはどちらかと言えば、検閲というより推敲という意味合いが強いように思われる。

さて、しかし、それでも人を傷つける可能性も考慮したうえで「書きたいことを書いて人に見せる」という選択は、してはならないことなのだろうか。これはニーチェ的な問いであるようにも思う。

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