シングルファーザーとシラミ、果てなき闘争

僕らの世代だと21世紀といえばすでにどこの家庭にもロボットがいるはずだったし、車は空を飛んでいるはずだった。かつてのスーパーコンピューターよりも高性能なデバイスがポケットの中に入っているとはいえ、人々の生活は意外なほど変わっていないように思える。子どもはというと「いつそんなこと言った?いつ?何時何分何秒?地球が何回まわった!?」とまくし立てているし、「ピザ」という単語を10回言うように強要してくる。そして21世紀にもなって存在するとは思いもしなかった彼らとの戦いの日々がはじまることになる。

いつものように午後5時に会社を早退して三女を保育園へと迎えに行く。ここからは大人と会話することもなく家事育児に追い立てられる時間帯に突入する。1日の中でもっとも憂鬱な時間だ。保育園でもテンションが低く、保育士さんへの愛想も悪い。申し訳ない。三女に帰り支度をさせてさらっと立ち去ろうとすると、事務室に呼ばれる。何かあったのかとドキドキしていると、副園長先生が三女の髪を数本持ち上げ小声で言う。この白い粒はシラミの卵で、薬局にシラミ駆除のシャンプーが置いてあるからそれを使うとよいと。

シラミですか。前述の通り、21世紀の日本にいまだに存在しているとは思いもしなかった。小学生のころ社会の教科書で戦後の子どもたちが頭に薬品をかけられてシラミを駆除している写真を見た記憶がある。もちろんモノクロの写真だ。Kindleで本を読みiPadでYouTubeの動画を観ている現代っ子の三女と、記憶の中のモノクロ写真が結び付くのに多少の時間を要した。福岡や熊本でシラミの話など聞いたことがない。宮崎の気候がシラミの繁殖に適しているのだろうか。保育園を出てドラッグストアに直行すると、当たり前のようにシラミ駆除のシャンプーが置いてあった。

流行っている時には在庫が全部なくなるんですよ、と店員が言う。他の姉妹にもいるはずだからと、シャンプーを3本購入する。これが手加減している時のユンケルよりも高い。1本3千円、3人分で9千円。まあ今回だけの出費だし仕方がない。その時はそう思っていた。卵にはシャンプーが効かない。一度シャンプーをして成虫を駆除し、3日間開けて卵が孵化するのを待ってから再びシャンプーをする。これを3回繰り返す。面倒くさいけれど、これでシラミは駆除できるはずだった。ところがマニュアル通りのオペレーションを行ってもシラミを殲滅させることができない。確かにいったんはいなくなったように見えるのだが、しばらくするとまた髪の毛に白い粒が増えてくる。

何度かATMで1万円をおろしてドラッグストアへ駆け込むということを繰り返しているうちに、シラミ取り用の櫛があることを知る。Amazonのレビューを熟読して一番(シラミに対する)殺傷能力の高そうな櫛を購入する。開封して眺めてみると歯が独特の形をしている。シルバーに輝くそのフォルムはエヴァンゲリオンのロンギヌスの槍を彷彿とさせる。これでシ徒(シラミの徒党)を殲滅だ。その日からシャンプーとロンギヌスの櫛による波状攻撃が開始された。長期戦になるとも知らずに。

昼間はプログラムのバグ(虫)取り、夜は子どもたちのシラミ取り。子どもたち3人を順番に呼び、髪の毛を丁寧に櫛ですいていく。毎晩一定量の収穫がある。グロテスクなシラミの見た目にもすっかり慣れてしまった。それでも取っても取ってもいなくならない。少しでも取り逃がすとまた増えてくるのだ。3人いると取り逃がす可能性も高くなる。子どもたちは頻繁に頭をかいている。一緒に戦ってくれる仲間も相談する相手もいない。それにシラミがいることはあまり公言すべきではない気がする。僕のメンタルは日に日に弱っていった。

それに追い打ちをかける出来事が起こった。再び保育園の事務室に呼び出される。副園長先生が「お父様おひとりで大変だと思いますが」と切り出す。誤解のないように言っておくと、副園長には悪気も嫌味っ気もまったくないということはわかっている。僕が裏を読みすぎているのだ。その結果、「父親がひとりで大変だ」という言葉を「父親ひとりだから子どもに手をかけられていない」と受け取ってしまった。とんでもない。毎晩3人の髪を櫛ですいている、シャンプー代は何万円になったかわからない。両親がそろった家庭よりも手間もお金もかけている。子どもに手をかけていないだろうと言われ、まあ言われたと感じただけなのだけど、いつもにもまして低いテンションで保育園を後にした。

その夜ひとり部屋にこもり、ロンギヌスの櫛と一緒に入ってた小冊子をパラパラと見返す。優しいイラストと文章でシラミについて書かれていた。「シラミは不衛生にしていて自然発生するものではありません」「櫛を使う時間を子どもとのスキンシップの時間にしてはどうでしょうか」そういったことが書いてあった。この櫛のメーカーは親の気持ちをよくわかっているのだろうと感じた。弱った心を癒してくれる。雑紙入れのトレー行きだった冊子をそっと本棚にしまう。それからは保育園や小学校であったことや子どもたちが話したいことを聞きながら髪をすくようになった。

もちろんコミュニケーションをとりながら髪をすけばシラミがいなくなるなどという都合のいい話はない。躊躇する床屋を説得して思い切りショートヘアにしてみても、事態はいっこうに改善されないまま季節が巡っていった。そうこうしているうちに勤めていた会社を退職して宮崎から福岡へ引っ越しをした。それからしばらくすると、あっけないほどあっさりとシラミはいなくなった。櫛を使うスキルが向上したのか、それともやっぱり宮崎の気候がシラミの繁殖に適していたのかはわからない。どちらにせよ長い戦いはついに終わりを迎えた。

自分にうつっては駆除するのが難しいからと、それまでは子どもたちとの接触を控えていた。戦いが終わり、ようやく物理的なスキンシップを思う存分とることができるようになった。一緒の布団で寝ることもできるし、子どもたちに固め技をかけることもできる。子どもたちも遠慮なく背中から飛びかかってくる。平和な日常が帰ってきたのだ。それからさらに数ヶ月。もうあの頃の憂鬱さを思い出すこともない。そして僕のピンチを救ってくれた小冊子は、引っ越しのドタバタでどこかへ行ってしまった。出来すぎた物語のように。

サポートしていただくと更新頻度が上がるかもしれません。