明瞭

明日もあなたはこの穏やかな寝室で、深く深く眠りこけるのだろう。小さな悲鳴を上げたり、時々小刻みに震えるようにして眠る姿を、毎夜見つめている。曖昧な記憶の断片をキルトのように継ぎ接ぎしながら暮らすあなたが、少しでも穏やかに暮らせるように見守ることが、私の仕事だ。少しでも惰眠を貪れるように、毎日枕カバーとシーツを洗濯し、バーベナの匂いがするリネンウォーターを吹きかけて、甘く甘く落ちるように時間をかけて準備する。あなたが逃げ出したくなるような夜を、もう二度と迎えないように寝室を整える時間は愛おしさもあった。

家を出て10分ほどで駅に着く。あなたに残された記憶の断片はとても明瞭で優秀だった。仕事に行くルートにも迷わない。仕事も適切にこなせており、夜道は少し「自由」に歩くことも、何ら以前とは変わっていなかった。真っ直ぐの階段を軽やかにらせん状のように歩く姿は、一見すると陽気な男に見える。ただ少し怒りっぽくなったり、不安になったり、子どものように揺れ動く感情を、人よりも多く持つようになっただけだ。記憶が散らばってしまう出来事が起きた場所で、あなたは時々亡霊を見つけるようにして、青いゴミ箱を見つめる。倒れた青いゴミ箱を起こすときもあれば、時々は一瞥しては通り過ぎる。ある時は蹴とばし、またある時は抱きしめた。そしてある時なんて、一度通り過ぎ、自宅で身支度も済ませ、迎え入れるようにして青いゴミ箱のそばに居た。青いゴミ箱はあなたの感情を毎夜一身に受け止める。私はそのゴミ箱が羨ましいとすら思っていた。

日常は少しずつ綻んでいく。

次第にあなたの記憶のキルトは剥がれ落ち、家に帰ってきたり、帰って来なくなったりする。バーベナの匂いだけが寝室に漂い、あなたの寝息に混じる小さな悲鳴を確認できなくなる。あなたを探す日々が始まった。あらゆる街の、あらゆる電柱のそばにある青いゴミ箱を探し、夜には道路に倒れ込むほど疲れるようになる。青いゴミ箱に、立ち止まっている男はいないか。もしもあの日、あのような「出来事」が起きていなかったら、私たちはずっと、仲が良い二匹の飼い猫のように暮らせたはずだ。

ある平日の木曜日、駅前のモスバーガーでやっとあなたを見つける。鮮やかな青のワンピースを着ている女と、彼の好きなセットのバーガーを食べながら談笑する姿は「出来事」の前の彼だった。どうして彼は私を覚えていないのだろう。どうして青の青さに、目を奪われてしまうのだろう。出来事は起きたのか、起きていないのかわからなくなる。彼と目がやっと合う。彼は戸惑いながら会釈をし、青いワンピースの女性に、「ごめんね、ちょっと待っていて。」と言う。

「僕が助けたことを忘れましたか」

明瞭に話しかけるあなたの後ろで、私の姿を訝しげな顔で見つめる女の青さは、あの日の出来事は本当に起きたことを告げていた。




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