絵本を人に贈る

ある知り合いが3ヶ月かけて100人くらいの来店客にランダムに声をかけまくってヒアリングした。

目的は「図書カードを買ってもらう」。

50代以上の男性は、知り合いの子どもや孫に図書カードを贈るよりも、自分が「読んで欲しい本を贈る」人が多く

女性は翻って年代に関係なく、知り合いの子どもや孫に「図書カード」を贈り、子どもたちが好きな本を買うことに抵抗がない

そう言う感触があったそうだ。

私自身が調査した訳ではないし分母が100ぽっちで統計学的にもサマになる数字ではないし、なんの信憑性もないのだが、

ただ、日々の営業の中で、確かにそういう傾向はうっすら感じている。

大人はなぜか子どもたちに教え諭すのが好きだ。未熟な存在として、自分よりも劣った存在として捉えているのか、とにかく、与える、読み聞かせるなどと言葉の端々に上から下へを感じる。

そして悲しいかな、目の前に立つ人を劣った存在として(相対的に自らを偉い存在として)認識しがちな属性と言えば、年配の男性と相場が決まっている。

年配の男性よ、申し訳ない。自分は違う!という御仁もあらっしゃるとは重々承知だが、永田町に出没しているのが私の言う年配の男性のモデルであるので悪しからず。

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本というのは思想の塊である。ある意味リスキーでもあるプレゼントである。
絵本は比較的文芸よりかは思想が薄いと言われるが、なかなかどうして、ものすごい思想の塊みたいな絵本も数多存在する。絵本にも多様性、雑多であってほしいから何も思わない(フリをしている)が、読むと正直「ゲーッ」となる。最近のご⭕️た⭕️う氏も、なんか押し付けがましい。若さを最早失ったのだろうと哀れにも思う。勝者老人のマンスプレイニングみたいで「ゲーッ」である。

私如きの好みはさておき。

そんな、思想の塊みたいなものをプレゼントするのだから大変だ。私のような小心者は恐ろしくて本を簡単には人に贈れない。

大切な家族の犬を失ったばかりの人に贈る絵本はありますか?

親が死んだ子どもへ贈る本はありますか?

そんな問い合わせは、ウソのようだが結構受ける。

いやいや、本を贈るだなんて賭けに出るより、相手の好きなお菓子や松坂牛でも贈ったらいいんじゃないのかなぁ。胃袋は満たされていた方がよい。

悲しみの渦中にいる人にいったい、何の思想を贈れば心が癒されるのか。そんな神さまみたいな芸当はなかなか一般人には難しい。

そんな時は、ガラッと思考を変えて、ナンセンス絵本の金字塔、何も言ってないようでものすごい社会心理学的な絵本「キャベツくん」などを勧めてみる。壮大な民主主義絵本「ブルッキーのひつじ」か。ポジティブ諸行無常な「せいめいのれきし」もいいかな。

いやこれだって悲しみに暮れている人の何か琴線に触れてしまう可能性はある。人の心を動かすのが絵本の命題なんだから。

とにかく人の気持ちを癒すのは時間でありその人自身である。

大切な存在を失った人に本を贈るのは極端な例としても、自分の選んだ本を誰かに読んで欲しいと強烈に欲する人は、私の目には強烈な自己顕示欲保持者に映る。

だから、図書カードを贈るというのはその中間を取る感じで、よいな、なんて思う。

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ところで最近の活動で、ブックサンタというものがある。私も相当シツコイが、やっぱり言いたい。
登録している書店に行って本を買い、それを寄付する。書店側はその本を事務局に送る。事務局では全国から集まった本を、適切な場所へ寄付する。

とても良い試みである。
本屋は本を買ってもらい、本を贈られた側は嬉しいしそしてチャリティーした側も嬉しい。

何も言うことはない。

なのだが、私はあまりいい気分がしない。

アンチではない。ぜひ賛同者の方々からは論理的なディベートを展開していただきたい。

まず思うのは、
①問題のもっと深いところに支援したいということ。

絵本を買いたくて買えない子どもがいるなら、買えるような社会システムを作るべきだ。
親に問題があるなら親も支援する。
貧困ならその根本から変えて行く。
ネグレクトやDVなら子どもたちを安全に匿える場所、暮らせる環境を整える。

本との出会いを捻出するなら、図書館への道のりを示す。
近くに書店も図書館もない子がいたら、書店や図書館を近くに作る。

図書カードを送り、その子が買える本屋さんの地図を渡す。

本を読みたくて読めないならば環境を整える方向にチャリティーしたい。

それから、
②この取り組みはこのままでは近いにせよ遠いにせよ未来は幸せにならない。

本が読みたくて買えない子に本を贈るというのはそもそも何を目的としているのか、サイト上では明確に書かれてはいないが、

暖かな思い出をプレゼントしたいというなら、それは見知らぬ誰かから差し伸べられた一瞬でいいのか。
それより穏やかに暮らせ安心できる日常がずっと続く方がいい。
そしてその思い出が「本である理由」とは一体なんであろうか。美味しい食べ物や洋服や整頓されたお部屋、最終的に「お金」ではいけないのか。百歩譲って子どもたちが欲しいものではいけないのか?

本を読んで欲しいなら、前述通り図書館を全国津々浦々に作ればいい。しっかりした司書を常勤でつければいい。

リベラルアーツに否定的な現政府に者申し、図書館に割く予算を増やす活動をする方がいい。

自分が贈りたいと思う、つまり贈り主の思想が凝縮された本を見知らぬ誰かにあげるなんて究極のマスターベーションであり、それは子どもの人権の観点からも些か外れている。

私が子どもなら、自分の好きな本を自分で買いたい。選びたい。

お米やお肉ではないのだ。本は読むことだけでない、「選ぶ」と言う行為も含めての読書体験なのだ。読むだけでは片手落ちだ。

そのような視点でのブックサンタの見解は見られなかった。

被災地に折り鶴を送るかのような行為である。


③そしてこういう慈善事業は長く持たないから社会設計にも同時に力を入れたい。

これから先、日本の貧困層は拡大していくだろう。「サンタ」になれる人が減って行くのだ。今はまだ良い。でも、10年20年後は果たしてどうか?
(もしかしたらもっと早く日本経済は崩壊するかもしれない)
すると、チャリティーは成り立たなくなる。慈善事業はあくまで行政で手厚く福祉を整えた上でなお溢れてしまう範囲をカバーする程度が健全だ。慈善事業頼みでは社会は成り立たないし、第一そのために税金があるのだ。ちなみにブックサンタ事務局が20年後まで未来を見据えてやっていない、と言うなら、やらない方がよい。理由は後で出てくる。

だから、慈善事業ではなく、公的支援が必要だ。

繰り返すが、ブックサンタの取り組み自体は素晴らしい。

取り組み自体も、無理がない。
しかし、継続性には欠けるし、本好きとしては本好きを増やすならば「本を選ぶ楽しみ」から体験してもらう覚悟がないとなんなら逆効果である。

この取り組みは、某日販系と聞くから、出版界隈の盛り上げや書店応援、将来の本好きを増やすと言ったことがその目的の中に含まれるのだと思う。
だが、上述したようにこの視点からは完全NGである。逆効果である。

企画者は誰だろう。高齢男性でないとよいのだが。


①②③と分けて書いたものの、全ては根底で繋がる思考である。
・本好きの子を増やしたい☞図書館へ誘えば良い。アウトリーチの仕組みを税金を使って作る
・本を買いたくて買えない子がいる☞貧困問題や虐待のセーフティネットを構築
・本の選び方がわからない☞図書館や本屋へ行き、司書に聞くことを教える(税金を使って)
・本との出会いの機会を増やしてほしい☞たくさんの中から自分で探さねば意味がないから作る。
・近くに本に触れる場所がない☞作る
・誰かのために良いことをしたい☞中央政府に意見を出そう。デモに参加しよう。きちんと候補者を見据えた上で投票しよう。ちなみに候補者を見据えるためには日々国会と記者会見ぶら下がりを見るのがオススメ。そうでないと、「馳さんよくやってはるよ」みたいなイージーな思考で投票することになる。

ブックサンタで数千円のお金を出すよりこちらの方がはるかに多くの人を助けることになる。

私たちの税金は、みんなの人権を守るために使いたい。岸田文雄氏と愉快な裏金仲間たちが料亭でカニを食べたり、あろうことか彼らの票集めの賄賂に使われるためでは、決してないはずだ。

この活動は、

子どもの「本を選ぶ権利」を蔑ろにしているのがやはり気になるのだ。

自分で本は選ぶべきだ。そしてその環境を全力で作るのが大人の役目だ。

もちろん活動全てがNGではない。例えば、普段からふんだんに本を読んでいるし家にも書棚がある子どもに、誰か見知らぬ他人が本を薦めることは、自分では選びそうにない本に出会える可能性があるだろう。それはとても良い。その子の読書をさらに豊穣なものにすることだろう。

しかし、ブックサンタはそういう活動ではない。

それに、その読書活動に恵まれた子は、何もブックサンタではなく、信頼おける図書館の司書が傍にいれば良いのだから、やっぱりいずれにせよ図書館を日本の津々浦々に作るのがよろしい。

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別に良いのだ。瑣末なことだ。

でも私の恐ろしいのは、さして書籍業界に興味のない人が深く考えることなく簡単に良い風なことが出来てしまうそのインスタントさと、そのインスタントなことに多数の賛同者がいるところである。

自分のしていることが、回り回って、書籍業界を衰退させることに繋がり、それほど子どもたちのためにもならないと言ったら驚くだろうか。

🔸

今、「盛山文科相の不信任決議案を否決(自公と維新)」や、「自民、共同親権導入を了承 - 民法改正案、今国会提出へ」といったニュースが飛び出す。
今困ってる子どもたちを大量に生み出した原因の一つが「カルト宗教の教義」を背景にした政治にあることは賛同いただけると思う。何せ「人権なんて間違っている」などと公言して憚らない議員たちである。あまつさえカルト宗教の力を借りて議員になるような自民党のお歴々。
そして、共同親権などという子どもの権利のことなんてお構いなしの法案が、乱暴にも進もうとしている。
ブックサンタの支援先である貧困層や本を読めない子どもたちだけでなく、様々な人の権利をを無くす方向に進める自民党、公明党、維新の議員。

この人たちが中央政府にいる限り、ブックサンタを必要とする人たちは増えこそすれ、減ることはない。

私は日々しばしば思う。

カルト宗教と繋がっている人、裏金に手を染めている人、人権を剥奪するような政策を繰り出す人たちに「票をいれている人」➕「選挙に行かない人」

「ブックサンタ事務局とチャリティーに参加協力している人」

は、

全く被らないのだろうか?

日々国会を眺めていると、ブックサンタを必要としている子どもたちを苦しめている人が誰かは一目瞭然であり、その人には投票しないと明らかに分かるのだが、まさか、国会を見ずに、カルト宗教に入り浸りな萩生田氏に投票したりはしてやしないだろうか?

まさかね。
社会問題には、敏感な人たちであると、信じたい。企画した人たちも、まさか、自民党から裏金なんか貰ってないよね?
みんな、ブックサンタに心を寄せると同じくらい、社会問題には敏感だよね?まさか、チャリティーはするけれど選挙に行ってない、なんてこと、ないよね?

ウクライナの状況に胸を痛めつつNATOのことを知らないとか、ガザ地区の状況に胸を痛めながらマクドナルドをせっせと利用するとか。
大阪万博を楽しみにしてしまうとか。

「良い風な」かつ「手頃」な善意活動は安易に広まりやすい。その背後に何があるか、そしてその未来には何があるのかを深く考えることなく進んでしまう。

因みに全体主義は、一つの例外なく善意から始まった。社会問題に無関心な人が行う善意ほど、恐ろしいものはない。

🔸

ブックサンタに心を寄せると同時に、心を寄せてほしいものである。

なぜこういう活動が生まれたのかと。その背景はどうなのかと。これは単なる貧困の問題でもない。

日本のチャリティーは思考が浅い。ウクライナのことも、2022年にあんなに猫も杓子もチャリティーしていた人たちからは今、ウクライナのうのじも聞かれない。
日本の人たちはチャリティーの前にきちんと社会構造について見つめて行動をし、民主主義国家としてアゴラを作る、原因と結果、そして歴史と構造、未来を見て考える、それから慈善事業するでも遅くはないと思う。日本には残念ながらまだそこまで社会が成熟していない。

小さな書店が自発的にやるなら良いのだが、きちんと組織を形成し6000店という書店を巻き込むほどの事業ならば、社会的責任は軽くない。

因みに、行動とはアクティビストとして活動するということではない。
その人が日々どんなニュースに関心があるかは、立ち話で分かる。
知らないまたは無関心というのが現在日本の最大の病であるから、まずは知ること、自分の意見を持つことから。
真の恐怖は無関心だ。

If we wash our hands of the conflict between the powerful and the powerless, we side with the powerful – we don't remain neutral.

チャリティーも大切だが、社会問題をもっと市民側から問い続けたいものである。「立ち話のアゴラ」を作る活動中である。

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