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ライターとしての目標はなんですか?

#ドーナツトーク は、誰かが出したお題についてバトンリレー式の連載。書き終えたら次の人を指名し、最後はお題発案者が〆ます。

杉本恭子さんから始まった「ライターとしての目標はなんですか?」というバトンリレー。増村江利子さん平川友紀さん池田美砂子さんを経て、バトンが回ってきました。アンカーだ! 前走者のみなさんに恥じない走りをしなければ。

ライターとしての目標、書くことで目指しているもの。色々あるけど、軸となっているのは、「昔の自分に見せたい世界を紹介すること」でしょうか。

自分を縛る呪いとなったのも、回復の支えとなったのも、言葉だった

20代前半の頃、頭の中を離れなかったイメージがあります。

温度も音もない水の中を、自分がゆっくりと沈んでいく。
水面の上には誰かがいるんだけど、遠くに感じて手を伸ばせない。

当時私は大きなストレスを抱えていて、離人症のような状態になっていました。

離人症というのは、自分の心が体から離れてしまったように、目の前に靄がかかったかのように現実感を失った状態のこと。心療内科にかかったわけではないから断言できないけど、たぶん、心の痛みや辛さを感じないようにするための自己防衛だったんじゃないかな。

じゃあなぜそんな状態になってしまったかというと、私が他者から投げかけられた言葉を「呪い」として取り込んでしまったからだと分析しています。

それは職場の人間関係に悩んでいたときに先輩から言われた「そんな人間関係しか築けなかった君が悪い」という言葉で、そのときから私は気づかぬうちに、どんなに理不尽な目に遭っても、「私が悪いんだ」と自分を責めるようになってしまったんですよね。

離人症状が出るようになってから、「どうして私は他人からどう言われるかばかり気にして自分を信じようとしなかったんだろう、自分を守ろうとしなかったんだろう」と後悔して、自分の内面に呪いとして根付いていた言葉をほどいていきました。「これってよく考えたらおかしいよね?」「これはある時期に自分を奮い立たせてくれた考え方だけど、いまは逆に毒になっているな」といった具合に。

言葉は、使い方を間違えると自分や他人を縛る呪いとなる。そう痛感しましたが、同時に回復を支えてくれたのもまた言葉でした。思わぬ人からかけられた優しい言葉で気持ちが楽になったり、本や映画の中の言葉が指針となったり、人生や仕事を思い切り楽しんでいる人を知って「こんな風に生きたいな」と意欲が湧いてきたり。

離人症状が出なくなってしばらくして、頭の中に浮かぶイメージが変わったことに気づきました。今度のイメージでは、私は水面の上に立っていて、水の底へ沈んでいく人を見ています。どうしたらこの人を助けられるだろう、と思いながら。

虹を見つけて指さすように

少し話が飛びますが、ちょうどこの頃香川県の直島を訪れ、ジェームズ・タレルの『オープン・スカイ』というアート作品に出会いました。それは壁に沿って人が座れるような椅子がしつらえてあるだけの何もない部屋で、特徴的なのは、天井にぽっかりと空いた正方形の穴から空が見えること。

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(この写真は直島ではなく金沢21世紀美術館のタレル作品)

とてもシンプルな作品なんですが、ぼうっと空を眺めていると、風が肌に当たると心地良いこと、青空を白い雲が流れていく様子がこれ以上ない位美しいことに気づいて、同時に驚きました。こんな当たり前のことを忘れていたなんて、と。そして、ふと気になって向かい側に移動したら、その角度からは虹が見えたんです。

私には、このことがすごく象徴的に思えました。

変わらずそこにあったはずなのに、気づけていなかった心地良さ、美しさ。動かなければ見えなかった景色。

一緒に来ていた友人から「どうしたの?」と聞かれ、「虹が」と空を指差した瞬間に、「ああ、私がしたいのってこういうことなのかも」と、さぁっと目の前の靄が晴れていくような気がしました。

虹を見つけて指さすように、この世界に溢れる素敵な物事を、人を、考え方を見つけて、紹介すること。いまいる場所だけが、過去に誰かから掛けられた言葉だけが真実じゃないよ、ちょっと動くだけで、視点を変えるだけで、見えるものは変わってくるよ、と伝えること。

私には水面の下にいる人の手を直接取って水の上に引き上げることはできないけど、水の上の世界の美しさとか、呪いのように手足を縛る重石を外すコツなら教えられるんじゃないかな、と思いました。

それがライターになった理由であり、書くことで目指していること、です。

ちなみに私のライターとしての屋号は『言祝ぐ』といいます。言葉で祝福する、祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。そんな意味を持つ言葉で、ことほぐ、と読みます。いい言葉でしょう。

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ひたすら書き続けた先にたどり着きたい境地


ただ、こういうのって塩梅が難しくて、「昔の自分のような悩める誰かのために」と力んでいるうちは空回りしがちで、かと言って全く意識していなくてもそこには届かなくて。

ひたすら書き続けた先に、自分の中からふと浮かび上がった言葉が、純粋に楽しみながら書いた文章が、意図せず誰かの心を軽くしてしまう奇跡のような瞬間が来るのかもしれない、と思っています。

100歳くらいまでにはそんな境地に至る予定なので、みんな長生きして見届けてね。

というわけで、杉本さん。長らくお待たせしました、バトンをお返しします。私たちの走り、どうでしたか? おいしいドーナツが描けたかしら。


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