晩春、パンクな蝉

季節外れなお話をひとつ。


実家暮らしの頃、私の部屋は一階にあった。

玄関から真裏に位置する私の部屋。窓の外には砂利を敷いた狭いスペースがあり、ここに物入れ用の小さな物置も置いてあって、言うなれば猫の額ほど、いやその額の半分ほどのスペースがあって、ここは私の喫煙所になっていた。

そこでは、小さな灰皿だけが頼り。

ある日、そこにタバコを吸いに出た。

家と、家の裏にあるガソリンスタンドとの間に、180㎝程の高さの塀が走っていて、その下、膝くらいの高さまでブロック塀を積んだ境界線のごとき低い塀がもう一本走っているのであるが、そこに腰かけると文字通り、座りがよかった。

その膝ほどの高さのブロック塀に腰かけて、家の窓を向く形でタバコを吹かしていた。

ふと足元を見ると、茶色い蝉の羽が、一枚落ちていた。

季節は晩春というか5月前だったろうか。これはどうしたもんかなぁと。

私はこの羽の持ち主のことを考えてみた。

概ね考えられるのは、昨年生きていた蝉の羽がどこかから風に乗って飛んできた、という可能性である。

この哀れな片翼を見れば、それが自然な考えではあるのだが、どうも解せない。

というのも。

「万物というのは、流転するものである」

といったのはどこかの哲学者だっただろうか。

若しくは、全てのものは滅び行くものであって、私同様、蝉もまた例外ではない。時間の経過とともに、死んだ者は朽ちていくのであって、その姿は「もののあはれ」とも言われる過程を辿るのが自然である。

それを踏まえるとどうもこの羽は、時間の経過の起こりを「夏」と考えると不自然なほど、形がよく残っていたのであった。

羽は欠けてすらいなかった。

そこで頭を切り替えて、もう一つの想像を働かせていく。



すなわち、この羽は、時期を誤って土から出てきた蝉のものではないか、ということである。

この羽の変色の仕方、そして状態といい、恐らく近い時期、蝉などいるわけのない冬とか、早春に出てきたものなのではと想像される色味をしていたのであった。

それが一体どういうことを意味しているのか、それを考えてみる。

蝉というものは本来、夏までの季節を土の中で過ごし、夏の短い間だけ、土から出てきて、その存在を主張するようにけたたましく鳴くことで、夏の象徴のように見られている生き物である。

その蝉の中に一匹だけ、その定説を覆し、時期外れに出てやろう、と考えた奴、エレカシの曲にもある、「季節外れの男」がいたのではないか、そう考えるのである。

俺が本来土の中から出るのは夏、だが冬に出たらどうなるんだ。

みんな夏に出るっていうことになっているけれど、本当は冬に出ても、俺は俺の存在を証明できるんではないか

とかやる奴が居たんではないか、と考えると、とても面白い。

普段、自然の生き物は、自然の摂理・道理に従い、生きていくもの。

そしてその姿を通して、その摂理に反した活動ばかりしている我々人類にその摂理の絶対性、諸行無常感を、常々気づかせてくれる存在だと思われている。


その自然の摂理に抗おうという蝉、というのはとてつもないパンクスだ。
人間ですら抗いようのない、自然の摂理に立ち向かう究極のパンクスだ。


だが、そのパンクな蝉もやはり自然には勝てなかったのである。

季節外れの外気には勝てずに死んだのだ。

そして寒風に吹かれ、身は朽ち果て、やがて一枚の羽根を残して、自然に還っていったわけである。

である、とは言ってもそれは想像ではあるのだが。

人の世にも、そういう既定の流れ、予定調和を粉砕しようと企てていて、立ち向かうのだけど、やがて敗北し、滅んでいく連中というものが、僅かながらに存在はしていて、こういう因果な結末というのは、どうしようもないアウトローな人間だけのものである、と私は思っていた。

しかし、ソイツが残した眼前にある一枚の蝉の羽、そいつが気付かせてくれた。

私は、そういうパンクな輩がいるのかもしれないと想像するだけで、なんだか勇気づけられた。

ただただ、流れに乗って生にしがみつくのではなく、あえてパンクな選択をし、印象に残る生き方をした(想像ではあるが)奴がいたということ。

まるでアメリカンニューシネマのようなその蝉の一生を想像すると、少し切ない気持ちになった。

見上げた曇り空はどんより濁っていたが、それもまた雰囲気に合っているようで、何だか嬉しくなった。


そんなことばかりを考えていて、気付けば、俺も「季節外れの男」になっていた。

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