不定形

引き寄せて結べば柴の庵にて 解くれば元の野原なりけり(慈円)

そこに在った草の庵は、ほどけば元の草原へと還る。そこに庵の痕跡は無い。
では、庵は存在しなかったのか。しかし草を集めて結べば庵は再び姿を現す。全ては時間と空間と共にある。一瞬にして結び現れ、一瞬にして解かれ消えていく。
それは「在る」と言えるし「無い」とも言える。

では今ここで生きる「僕」はどうだろう。
人の体を構成する細胞は死滅と生成を繰り返し、全身の細胞は一部を除き、数ヶ月でほとんど入れ替わる。
なら1年前に「僕だった物体」の大半はもうこの世には存在していない。しかし「僕」は今ここで生きている。果たしてその二つは同じ「僕」だと言えるのか。

見た目が同じだから?昔の記憶があるから?
でも、その記憶が本物だという保証は?
全ては今朝目覚める前に見た夢だったのかも知れないのだから。

「存在」などというのは形あるものでさえ、かくも不確かなものだ。
ならば形の無いものなど、もっと曖昧であってもおかしくはない。

手を打てば鯉は餌と聞き鳥は逃げ 女中は茶と聞く猿沢池(詠み人知らず)

「手を打つ」というのは「行為」であり、実体が無い。
たった一つの行為に対して各々の立ち位置が違うだけで、まるで違う反応を示す。

「行為」に意味を持たせているのも、庵や僕の形を定義しているのも、人の意識だ。世界の姿は心の在り方次第で如何様にも形を変えていく。

あの日、僕が見たのは形の無い幻
信じたのは実在しない約束
だけどそれは錯覚、或いは虚構、或いは妄執
そして或いは、希望と呼んだもの

存在しないものに心を囚われることを、愚かと笑うのは簡単だ。
そこから心を解き放つことが、簡単なようで一番難しい。

もしサポートしていただけたら、本を買おうと思います。心を豊かにして、良いアウトプットができるように。また貴方に読んでもらえるように。