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一年間の鳥取隠居生活を終えて、僕が感じたこと気づいたこと

お久しぶりです^^
一年ぶりに、noteを書いています。
鳥取の山奥で一年の生活を終えた Hide です。

この一年は暮らしに集中するために、意図的にSNSやnoteでの発信を止めていたのですが、一つの区切りというか、人生の章が切り替わるタイミングなので、この一年のことを一度整理したくてnoteを書きたいと思いました。

「誰のために」とか「何を伝えたいか」とかそういうことを一切抜きにして(しいていえば自分のために)、いろんなことを書き綴ろうと思うので、読みづらさもあるかと思います。

「わざわざnoteで書かなくても、メモ帳に書けばええやんか」という気持ちもあったのですが、言葉にすることは種蒔きだと思っているので、「どうせ蒔くならnoteというパブリックな庭に蒔こうじゃないか。何も実がならない可能性もあるけど、もしかしたら花が咲くかもしれないし、おいしい実が収穫できるかもしれない」ということで書いているわけでございます。

なぜ鳥取の山奥に住もうと思ったのか

都会の生活が苦しかったから、田舎の生活に憧れがあったから、そのようなわかりやすい理由を言えたらいいのですが、僕の場合は、「そこに住む家があったから」です。

なんか、登山家みたいな言い草になってしまいましたが、そうなんです。
鳥取がよかったわけでもなく、人里離れた場所がよかったわけでもなく、(のちに触れますが)豆腐をつくるぞと決意して移住したわけではありません。

当時のパートナーと約一年間、自然や人にやさしい暮らしをめぐる旅をし終えたあと、心の中にただあったのは「ゆっくり時間をとれる暮らしがしたい。」というぼんやりとしたビジョンでした(旅のことが気になる方はこちらをのぞいてみてね)。

一年間の旅で感じたことがあまりにも多すぎて、やりたいことが溢れすぎて、アドレナリンに犯されたハイな状態で何かを始めても、きっとまた忙しさの渦に飲み込まれて「なんのためにやっているのか」を見失ってしまう直感がありました。
それらを消化して栄養にして、自分に必要ないものは手放していくように、身と心を整える時間がほしかったのです。

それで、僕らと同じように旅に出た友人が、「ちょうど空き家になるから」と(家主のいない)居候を快くゆるしてくれたのが鳥取へ腰を据えるきっかけになったのでした。

どんな暮らしをしていたのか

屋根に穴が空いた古民家に半年間住んだ

もともとは茅葺き屋根だったが、50年前に鉄板を貼って補修されている。
その鉄板にもいよいよ寿命がきてこの有様だ。

こちらは、結果的に五ヶ月間住むことになった築100年以上の古民家です。
かなり年季が入っているものの、近所の方々が畳を張り替えてくださったり、家主やその友人たちが大掃除をしてくれたおかげでなんとか住めるという状況でした。
ただ、お風呂がないというウィークポイントがあり、冬を迎える直前に居候生活に終止符を打つことになります。そのあとは、同じ地域の古民家ゲストハウス→元幼稚園のシェアハウスに移り住み、快適な暮らしを送りました。

田舎の恩恵を多分に受けた

帰ったら無償の野菜ギフトが玄関前に置かれていたり、たくさんあるからと米をいただいたり、肉の加工を手伝ってくれたからとジビエ肉をいただいたり、「歩いていくならついでに送っていってやるよ」と軽トラで送迎をしていただいたり。田舎を題材にした漫画やドラマでよく見かけるような田舎暮らしでの恩恵をたくさん受けました。

なんでこんなにやさしい人が多いんだろうと考えてみたところ、やさしさが発揮されやすい環境に要因があるのではないかと思いました。
例えるならば、人は誰しも “やさしさエネルギー” みたいなものを持っていて、一日の中で使える量はだいたい決まっているのかもしれません。
人が多すぎる場所だとそれを一人ひとりにたくさん配れません。枯渇してしまうからです。
でも、一日に10人と会わないような田舎だと「たくさんあるから」と、出会う人たちにやさしさエネルギーを分かち合えるようになるのではないか、そんなことを思いました。

週に二日、地域のとうふ屋で働いた

写真はそのとうふ屋ではなく、徳島で生まれて初めてとうふづくりを見せていただいたときのもの

パソコンの中で完結するのではなく、五感を使って何かを作るしごとをしてみたいと考えていた矢先、鳥取で60年続く半家族経営のとうふ屋さんとご縁をいただき、そこで働く人たちの雰囲気に魅せられた僕はそこで働かせていただくことになります。

田舎で持続可能な小商いをやることについて、地域経済について、人の身体に入るものをつくるということについて・・・たくさんのことを学ばせていただきました。軽く触れただけでも崩れてしまい、消費期限が5日ほどしか持たない繊細なとうふと一年間向き合ったことで、内面的にもたくさんの気づきがありました。

田舎暮らしに興味がある友だちにショートステイしてもらった

最寄り駅まで車で30分くらいかかるような田舎に、たくさんの友だちが遊びにきてくれました。

たいていみんな都会に住んでいるので、薪を使って料理をしたり、縁側で鳥の声に耳を澄ませたり、冷たい川の中に足をつっこんだりするのを子どものように愉しんでくれていました。
中には、ここで3日ほどショートステイしたことをきっかけに、京都の中心地からアクセスが決してよいとは言えない奥地に引っ越しをしたカップルもいました。
自分の暮らしを分かち合うことで、人の人生が豊かな方向に変容していくのを見るのはとても有意義なことでした。

生まれて初めて絵を買ってもらった

黒と朱色の筆ペンで描いた「いやし菩薩」。

社会に出て初めての、週休5日。
忙しすぎる現代人の一人であった僕は「人は時間があると何をするようになるのか、はたまた何もしないのか」、興味があるところでした。

結論を言えば、音楽や絵、映画などのアートに触れたり、自分でそれを創り出す時間が増えました。
今までたまにしか弾くことのなかったウクレレを演奏するようになったり、たくさんの映画、ドラマを観るようになりました。
そのひとつが、筆ペンで絵や文字を書くことだったのですが、何気なくとうふ屋のメンバーに見せたところ上の絵を気に入ってくれたみたいで、ぜひ買わせてほしいと驚きの提案をいただくことに。
買うとは言っていただいたけれど、さいごは高級ハチミツと交換することになりました。

お金との関係性について

川がせせらぐように気持ちよく世の中にお金が流れたらいい

旅をする前に受けていた業務委託のしごとと、鳥取生活でのしごととを比べると、収入は5分の1になりました。でも、不思議なことに、収入がたくさんあったときの方が手元に残るお金はありませんでした。

それは、生活にかかるコストの違いだけではないと感じています。
しごとの締切に追われたり、街を歩くだけでも絶え間なく情報にされされている中で、何かを買うことでストレスを和らげている面もあったのかもしれません。
当時何にお金を使っていたか無自覚だったことに恐ろしさを感じてしまいますが、生活を切り詰めても、とにかく支払うものがたくさんありました。

エッセイストの松浦弥太郎さんは「お金にも人格がある。お金を“お金さん”と呼ぼう」と言っています。それは、単にお金を節約するということではなく、お金というものやお金に対する考えをていねいに大切に扱い、人との関係性をつむぐようにお金との関係性を見直そうということだと理解しています。
何にお金を使いたいのかを見極める心の余裕と時間ができたことが、結果的にお金との関係性を養うことにつながったのだと思います。

自分にとっての「暮らし観」を見つめ続けた一年

「社会は僕たちの暮らしでできている」という言葉に出会い、暮らしをめぐる旅を終えてから一年。「じゃあ、僕がしたい暮らしってどんなものだろう」という問いにこれでもかというほど向き合わせてもらった一年でした。

移住して間もない頃に感じていた、田舎でひっそり暮らしていることで感じる社会に対して価値やインパクトを与えられていないことへの罪悪感は、もうすっかり消えてしまいました。

むしろ、「こんな自分じゃダメだ」と自己否定をしながら“もっと、もっと”と社会的成果や無限の成長を求めることほど自分も周りも苦しめることはないとさえ思っています。

この一年を通して気づいたことの一つは、そういうもの(他者から条件付きで愛されたり、認められようとする恐れをベースにした動機)から動こうとする自分をその都度そこから解放してあげて、動機を愛につなぎ直すことが自分平和、もっと言えば、影響力は小さいかもしれないけど周囲の平和につながるのだということでした。

  • 小さくてもいい、やさしい暮らしを実践すること。

  • 夢や目標が自分を押しつぶす重圧に変わっていないか日々点検すること。

  • 終わりのない欲望ではなく、ニーズを満たすことにお金を使うこと。

  • 人が言う「いいこと」は、自分にとっても「いい」とは限らないこと。

  • 僕らはもっと、助け合っていいということ。

  • 見返りを求め合う関係性は長続きしないこと。

  • ダメな自分もゆるしてあげること。

  • 何より、自分を愛してあげること。

たくさんのことに気づかせたもらったこの一年という時間は僕にとって、研究期間であり、ある意味では自分自身を実験台にした「あそび」でした。

ともにあそび、学びや気づきの機会を提供してくださっただけでなく、無条件に手助けしてくださった地域のみなさまや友人に心から感謝をお伝えしたいと思います。

ありがとうございました!
お読みいただいたみなさまもほんとうにありがとうございます^^

さいごに

これから、暮らしの発信をどのようにしていこうか考えています。
引き続きnoteを使うのか、新しく何か別の発信媒体を使って始めるのか・・・。
それらを考えている理由は、住む場所や使う言葉も変わるので、それに適した発信のカタチを見つけたいと思っているからです。
場合によっては、このnoteアカウントでの記事での発信はさいごになることもあります。
どんなカタチになるのかまだ未知ですが、自分のリズムに耳を澄ませながら、これから起こる縁の宴を引き続きたのしみつつ、言葉の種を蒔いていこうと思っています。
また、逢う日まで。

Hide

noteを読んでくれてありがとう! 僕らしく、優しさのリレーをつなぐよ。