聖書、その可能性の中心 #1
聖書はキリスト教の聖典だと思っている人がいますが、それは、間違いです。
キリスト教は聖書を利用しているだけで、根本的に聖書と考え方も違うし、キリスト教は商売です。聖書とは精神が違います。
ユダヤ教も聖書の正しい理解には至っていません。ミシュナ(口伝律法)、タルムード(教え)とトーラーの解釈本を作って聖書を曲げて理解しています。
ここでは聖書の基本的な方向を、聖書の重要的なところを書きます。
これは生命の木の道です。幼心への道です。
イエス(ישן 存在、現実)
聖書では、イエスが登場することも、パウロが登場することもあらかじめ預言されていました。パウロについては、『陸や海を行き巡るパリサイ人』(パリサイ人は基本的には移動はしない)、『イエスの後に毒麦を撒くもの』という言葉があります。キリスト教を作ったのはパウロです。
イエスは聖書最大の善人です。パウロは聖書最大の巨悪人です。
イエスは現実的な思想を持っていて、それは旧約聖書の精読から形成されていて、モーセのトーラーと、ヤハウェの言葉の正しい読みから来ています。
イエスは論理的に正しい話をする人でした。
私の先生達は、イエスの教えが少ないことでイエスが理解できませんでしたが、イエスが弟子達に教えていたのは、モーセのトーラーを教えていたのです。
聖書の正しい精神はノンヒエラルキーもしくはアンチヒエラルキーです。パウロを中心とした、宗教者はヒエラルキー精神です。ここで食い違ってきます。
イエスはヘブライズム(ヘブライ的な文化、思想)です。キリスト教を作ったパウロはヘレニズムです。
旧約聖書のモーセについて書きます。モーセ(משה 水から引き出す)この名前は、モーセが赤ちゃんの時、母親に捨てられて川に流された時、エジプト人女性に助けられたところから、エジプト人女性の慈悲を表します。
モーセはシナイ山上で、ヤハウェからトーラー(תןךח 方向性、指示)を授けられます。トーラーは世界で最初の倫理で、真理でもあります。特に罰則規定がない掟です。
イエスは『私はトーラーを完成するためにやってきた』と言います。日本語に虎の巻という言葉がありますが、トーラーの巻物が日本にありました。
トーラーという言葉は日本語のほらー(見よ)、そらー(見よ)という言葉につながります。
トーラーは方向性ですがどっちの方向かというと慈悲への方向性を持った掟という意味です。
トーラー(一部)
人を殺してはいけない
他人のものを盗んではいけない
人の家を欲しがってはいけない
子羊の肉をその母親の乳で煮てはならない(残酷なことをしてはいけない)
偶像崇拝の禁止
トーラーは心を慈悲に向けよと言っています。
トーラーは生きる時の指針になるもの=精神です。
聖書は石の板にトーラーと掟を記したとヤハウェは言っています。トーラーと掟は別の概念です。
トーラーは性については何の禁止もない掟です。性に関する記述は『外に射精した精液は汚いものとする』これだけです。
聖書において聖なるというのは、汚れたところを見る、人々のために汚れるということです。聖なる女は娼婦であるということを聖書は示唆しています。
シェイクスピアの『マクベス』の魔女の言葉に「綺麗は汚い、汚いは綺麗。」という言葉があるがこれを指している。
トーラーはヤハウェの言葉集です。パウロは律法があると罪が明らかになると言って、キリスト教はこれを否定しました。
神とは何か?説明できませんが、ヤハウェ(יהןה 有って有る)は存在の中の存在者、心の中にいる存在なのです。神の性質は書かれています。
ヤハウェの言葉で『私は自分が恵むものを恵み、自分が憐れむものに憐れみを示す。』というのがあります。ヤハウェは人を選ぶのです。みんなに恵みがあるわけではないです。
聖書のヤハウェの言葉を一つ一つ覚えて行動すると血肉化して聖書が正しく読めるようになります。イエスは、『人はパンのみによって生きるのではなく神の言葉から出る一つ一つの言葉で生きる。』と言っています。
聖書とヤハウェとイエスは反宗教です。ホセア6:6 ヤハウェ『私は憐れみは好むが、神への犠牲(宗教)は好まない。』これはどういうことかというとキリスト教もユダヤ教も賛美の犠牲を行うわけです。ユダヤ教は詩篇に節をつけて歌います。それをパウロは受け継いでいるのです。
イエスのいう天国とは何か?
人の国は人が人を支配するという意味です。神の国は神が支配して人が人を支配しないということです。天国とは幼心の国ということです。
キリスト教のように別の世界を作るとそれに伴う、現実の世界に対する嫌悪が起きてニヒリズムが発生するとニーチェは言いました。現実は嫌だ。早く死んで天国に行きたい。という気持ちが人々に発生します。
キリスト教は天国と地獄を作ることによって恐怖心を人々に与え、教会に献金すれば天国に行けると商売をしました。キリスト教の聖書解釈を信じてはいけません。
キリスト教の天国は幻想の世界です。ユートピア思想のもとであり、キリスト教徒しか行けない排他的な場所です。
ヤハウェも十字架のヨハネも、現実をよく見なさい。幻を見てはいけないと言っています。
マタイ福音書はマタイはイエスの弟子で、収税人(差別を受けていた)。イエスの言葉が全部載っている。ヘブライズム。
マルコ、ルカ福音書は、パウロの弟子でマタイ書をキリスト教思想に書き換えた文書。マルコは医師。ヘレニズムです。
ヨハネ福音書はイエスの弟子でヘブライズムです。
私がヘブライズムとヘレニズムに分けたのは、聖書はヘブライ語からギリシャ語へ
翻訳された段階で、ヘブライ語の罪という概念(無慈悲)が、ギリシャ語のハマルティア(神からの離反)に変わってしまい誤訳状態なのです。聖書はキリスト教思想に汚染されていて誤訳状態なのです。
イエスの言った愛というのは慈悲を含むものです。
私が論じているのは聖書とキリスト教はまったく関係ないということです。キリスト教はイエスにはいつまでも届かない、遠くまで行ってしまっています。いつまでもイエスの影を追いかけて、同じ人間にはなれません。
皆さんの意見を募集しています。もしよければ私と聖書研究をしませんか?
ヘブライ語と一緒に日本語とヘブライ語の関係も追求できればと思います。
新しい聖書研究会を作りたいと思います。みなさんご参加ください。
西川英行
〒567-0897 大阪府茨木市主原町7−8−218
hide_yuki1970@hotmail.com
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