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全部ただの個性やんけ

料理に使う料理酒って、要は何?日本酒?
ってことはお酒としてもおいしいものを使った方がおいしいんじゃないの?
とそれなりの純米酒を買ってみたら、酒を飲みながら料理をするようになってしまったひで。です。


わたしは、一般的に

頭が良い

と分類される人間です。
何を言ってんだ、こいつ。と思われるでしょうが、続けますw

親の教育意識(?)が高かったこともあって、そりゃあ早くから塾とか行かされるわ、習い事も多かったし、という環境だったおかげでもあるとは思いますが、
小学校、中学校、とテストを受ければ常にクラス、学年共にトップクラス。しかも、中学校のテスト前は部活がなくなるので、「わーい、遊べる~」と親から盗んだお金でゲーセンに行き(もしばれたら超ヤバい感じの家庭でしたが)、テストはだいたい前日にちょろっと本気を出して記憶するだけで、だいたいどの教科も高得点でした。
まぁ、塾とかでほとんど先取りしていて、理解出来ていないことなんか何一つない状態だったので、授業態度も悪かったり、先生からしたら鼻につく生徒だったと思います。

興味のないものを無理矢理記憶するのが、人より得意だったんです。

「だいたい前日にちょろっと本気を出して記憶するだけ」
と、”勉強するだけ”ではなく、”記憶するだけ”と表現したのですが、

暗記ものに滅法強い。
って、学校のお勉強って暗記でどうにかなるものがあまりに多いんですよね。

中学の夏休み宿題に、英語の教科書のある単元の7~8ページ(だったか?)にわたる英語長文を暗記して来い、っていう(くだらない)ものがあったのですが、当然そんな宿題はやらずに夏休みは終わる。
でも、新学期が始まり、
最初の授業はその覚えてきた英文を書くテストをしまーす
と言われ・・・、
テストかー。点数取れなかったらやだな・・・。
と思っているところに、その英語の直前の授業が、一番嫌いでまともに受けてなかった社会の授業。
お!ちょうどいい。
と、机の引き出しあたりで英語の教科書を開いて、覚える。
よく、書いて覚えろ!という先生が多かったのですが、わたしの記憶方法は
「見て覚える(結構パワー使う)」
でした。ちょっと覚えることに集中した状態で、ジロジロ見まくる。
多分、他のことをしているのはばればれだったのでしょうが、社会の先生とは険悪でもあったので、無視されつつ。

それで、ある程度覚えたと思ったら、途中で切って、何も見ないで書く。
それですぐにチェックして、間違えたり、思い出せなかったら、またジロジロ見る。
いくつかのブロックに分けて、ブロックごとにそれを繰り返し、書けるようになったら最後にそれぞれのブロックを繋げて全部書いてみて、チェック。

それを社会の授業中まるまる約1時間かけて行い、その直後のテストは全文一字一句違わず満点でした。

見て見て、おれ直前の1時間だけやって満点だぜ、と自慢していました。
(ちなみに放置して一週間もすればほぼ全て忘れます)

上記の方法は自然とやり始めた自分のやり方なのですが、どうも当時一般的には「書いて覚える」ってほうが推奨されていて、特に英語では先生の趣味で
”頑張りプリント”という、A3の用紙が常に配られていて、

英単語を頑張って書きましょう!この用紙を全部単語で埋めつくして提出したら成績に加点します!

というルールが周知されており、日々そういうのが好きな生徒が英単語を書きまくっている中、
「むやみに書いたって覚えらんねーよ。現にそれ何枚も出してるやつら俺より点数取れてねーじゃん」
と批判して一枚も出しませんでした(やなやつw)。

そんなだから心象も悪く、そのせいでテストは常に90点~満点だったにも関わらず、通知表の「5」の右上にちっちゃく×を付けられて、
「提出物が出せてません」
みたいなこと書かれていて、
「覚える、という目的が果たせているのにその方法が異なるからって減点するのは何事か!」と激怒した覚えがあります。(つっても先生に直接言う勇気も、成績へのこだわりもなかった)

と、何自慢だよ、という感じではありますが、違うんです。

「テストの点数が取れるやつが優秀であり、この先も評価され、何でも人より上手く出来る」
そんなふうに考えていた時期がわたしにもありました。

という話。

高校でも相変わらず、気合いを入れればほとんど上位(気合いがない時はダメになってきた)ではありましたが、だいたい高校ではみんなバイトを始めますよね。
わたしもそれに乗ってバイトをしてみましたが、

全 く 使 え な い

やつであることが露呈しました。
もともと超マイペースなところがあって、状況に応じてテキパキとからだを動かすことをあまりやったことがなく、
何より家庭環境と気質が相まって、それまでやったことのない

世の中の不特定多数の人々と接する

ことが恐怖だということを体感するようになりました。
後者は何か、っていうと、お坊ちゃん環境というか、
何事も過保護に手をかけられていたせいか(姉は全然強靭な人なので、それだけでもないと思いますが)、例えば、親がレストランとかのお会計をしているところを見て、
「うわ、将来アレを自分でやらなきゃいけないのか・・・。どういったルールで会話をしているんだろう。やだなぁ、怖いなぁ。」
って思ったりするような性質であったこと。
学校とか、塾とか、それまでの環境は、先生、生徒って立場が決められていてるので、ある程度安心して過ごせるのですが、社会、となった途端、対人において未知の暗黙のルールを大量に感じて戸惑いまくってました。

それで、色んな人がたくさん来るコンビニでバイトをし始めた時に、まず知らない人と接する恐怖に捕らわれて、緊張で変な汗をかきながらなもんだから、もともと自分でやったことのない袋詰めもさらにおぼつかない。
嫌すぎて思考も停止しているので、あるおばあちゃんに
「ここは何時までやっているの?」
と聞かれたら、すぐさま店長のところへ行って、
「この店は何時まで営業ですか?」
店「・・・24時間だよ・・。」
と呆れられ、ハッとなる始末。

早速、バイトはぶっちするようになりました。

親が喜ぶ、以外に何の意味があるのだろうか、といつも思っていたお勉強ですが、世間的にはそれで評価されることが多いので、やっぱりなんだかんだそこで優位に立てる自分に自信を持っていたところ、色んな意味で衝撃的でした。

だって、(おかしいとは常々思っているけれど)偏差値が高いと有名な大学に入れて、それで大きな会社に入って給料が多い仕事に就けるんでしょ?
でも、おれ仕事出来ないよ?テスト関係ないじゃん。どういう事?

エリート意識を持ちながら、世の中のルールをバカにする、という混乱を抱えたまま、矛盾した行動、思考をするようになります。

そして、「仕事」に嫌悪感と恐怖を感じて、なるべく避けて避けて就活もせず・・・とそのあとのことは気が向いたらで。

まぁ、結果的には、
ここならまだ平気、という環境で経験を積んで、「慣れ」に加えて歳を重ねると不思議と気が大きくなって、徐々に恐怖は消えていきました(んでもホントに消え切ったのは30歳手前くらい)。


その中でよく思ったのが、
偏差値偏差値って、たまたまこの世界で評価軸にされているけれど、
かけっこが速いか遅いかの違いと変わんねーよ。ふざけんな。

社会人になってから、わたしの学歴を羨む同僚に上記と同じ趣旨の発言をしたら、その同僚は感心したような顔をしていましたが、
「考えたことないんかい!」
と思いました。

というかこれ、上記のままだと少し語弊があります。
世界って言ってるけれど、それはたまたま自分が見ている範囲の事。
そしてその中で何が出来るとか、何に価値があるとか重みづけも、その状況とかルールとか、誰か(と自分)が都合に合わせてたまたま作った基準であって、本来全てただの個性。

んで、どういうわけか、頭が良い=素晴らしい、というのは本当に根強くたくさんの人に植え付けられている基準。
ほとんどの仕事において、偏差値が高いと役に立つ、ならまだわかるんですけど・・・。当たり前ですが、偏差値が高くない人で構成されている会社がどんどん潰れていったりはしないですよね。

嫌悪しながらも、わたし自身、社会人になってから要所で偏差値の恩恵に授かっています。基本偏差値に拘っている人が目をつけてくれる・・・w
さすがにそこで「お前の目は節穴だ!」とは言わず、黙って恩恵に授かりましたw


冒頭で、わざわざ細かい手順を添えて記憶力がある自慢をしましたが、

短距離走が速くて、昔からいつもクラスで1位でした。わたしの速く走るコツは〇〇を△△して・・・、別にアスリートになったワケではありませんが。

という話を聞いた時と比べて、やっぱり頭が良かった話を聞いた時の方が
自慢しやがって・・・とか、
わたしは出来なかったからな~
みたいな重い感覚を持ってしまいませんか。

なんか、足が速かった話の方が、すんなり「へぇ~、凄いね」と
軽く聞いていられる。
(あ、でもこれ世代が違うと全く響かない人いたりするのかな?)


話変わって・・・

ちょっと前に、テレビで今をときめくカウンセラーを主役にした番組を見ていて、その中で周りと同じことが出来ない子供を取り上げて、まぁADHDだとか何だとか言っていたのですが、

んなもん個性だろがい

と思っていたら、そのときめきカウンセラーが
「その子の個性なんです。」
と言い出して、おお!少し世の中は変わってきたのかな?と思っていたら
「個性としてとらえて、その上で〇〇をしてあげて、△△といった対応をすることで、症状の改善をしていき・・・」

それは個性としてとらえてねーじゃねぇか!

症状の改善、という言葉を使っている時点でこいつは個性だと思ってねぇ。
個性ならば何故、それを抑えたり変容させられなければならないのか。

あー、やっぱりテレビを見ると怒ってばっかりww(@妻の実家)

そりゃあ、世の中に順応しないと生きていけない、という大正義に歯向かうワケにはいかないでしょ、と言われてしまうのでしょうけれど。

じゃあ、みんなが大好きなぶっ飛んでて魅力的なあの人やこの人は?
と言うと、
それは凄い才能があったから許されるんだよ。

500回くらい聞いたこのくだり、本当なんですかね。

またいきなり感覚でモノ言い始めるんですけど、これ最早幻想ですよね。

意図的に用意された幻想なんだとか、これが幻想だということになったら社会のシステム的に誰が困るのか、とか言い出すと陰謀論になってしまうのでしょうけれど・・・w

何だか最近、どこぞの大学の教授だとか、凄い人達が集まった機関の人が言っていることが真実です!
みたいな風潮が強調されてしまう状況ですが、

それこそテストの点数が良かっただけで、実は肝心なところで適性が全然ない人が恩恵に授かって発言しているかも知れないワケで。

あ、そうそうよくマンガで機転を利かせて作戦を立てたり、臨機応変に事態に対応する頭いいキャラが、イコール偏差値も高い設定である事が多いのに違和感を感じます。
もちろん、両方兼ね備えていることもあるんですけれど、

デスノートの月くんの機転の利いた行動力って、
むしろ偏差値に興味のない不良系の人のほうがありそうだし、

進撃の巨人のアルミンって学究的で、相手の出方を予想して作戦立てる、みたいな頭の良さを感じないんです。
(個人の感想ですw)

色んな複数の個性を「頭が良い」でくくろうとしてない?


んで、結局のところ全て個性であって、重い軽いも良い悪いもないんじゃないかって。
そんで自分もそういう風に思えるようになった方が、楽しいんじゃないかって。

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