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青い夢見が良い

 久しぶりに夢を見た。本当に久しぶりだと思う。この夢は僕にとって二つの意味でかなり珍しいことが起きていたので、記録を残す。

 まずは夢の内容が"悪夢"に該当すること。大規模かつ眼前で起こる天災から友人たちと共に逃げる夢で、しかも1人はぐれてしまうというかなりショッキングな夢だった。
 もう1つは、明確にわかるほど知り合いが複数人登場した事だ。加えてその友人たちがここ1年ほどの短い時間の関係値であること。夢に友人が登場する事はこれまでも幾度かあったが、大抵は子供の頃からの友人で今回のようにまだ短い友人の登場はかなり珍しい。中にはまだ数回しか会っていないような友人の姿すらあった。

 この2つは自分にとってかなり珍しい事で、前者の天災に遭遇する夢をここまで明確に観るのは人生初ではないだろうか。ちなみに、自分にとって夢は映画を観ているような感覚になるので、悪夢であってもほとんどダメージは受けない。


 僕が夢を見る時は決まって感情が動いた時である。素直な身体、素直な脳は、特に記憶の整理かつ処理が必要ない時は、同様に夢も見ない。つまりこれまでの数ヶ月、夢を見る必要がないほど人生が枯れていたのかもしれない。
 人生が大きく変化することが幾度かあったが、それでも夢を見てこなかった薄情者である。いやつまりそれは、一般的に大きな変化であって、自分にとって何事もない事なのだ。

 つまり昨日起きた何か、もしくは考えたうちの何処かに、自身の心を震わせるものが存在した可能性が高い。
 しかもそれはただの夢ではなく、自分にとってかなり珍しい夢であったこと。そのため明確に記憶に残ったこと。

 夢に意味を見出す事が極めて容易なほど、意味深な夢であった。それは偶発されたものであったかもしれないが、この夢を見逃さない、見逃す気がないほど、今の自分は何らかのヒントを求めるような状態であるということだ。


 ちなみに、たぶん夢を観た理由はこれだろうなという仮説はある。なるほど、それは「一般的に大した事のない事だが、自分にとっては大きな畝りを呼ぶもの」に該当しているのかもしれない。
 少し抽象的になって申し訳ないが、それは昨日の思考過程にある。昨日ふらりと散歩しながら考えた。

 「"何故" と問われても、答えなどない」

 心の中で叫ぶように歩いていたと思う。ずっとこれが言えなかった。行動には理由が存在するはずだと言われるし、自分もそうであると思いたかった。理由の存在は人の理解を促し、人との接点を産むから。

 最近うっすらと顕れはじめていた「俺に結論を求めるな」という言葉を、ようやっと受け入れたような感覚である。

 俺が結論を出す時は、それは演算によって世界の最適解を出すことであり、それは自身の答えでは無い。セカイと融和的に過ごす中で、そこに形が現れることも無く、半ば必要性ゆえに行動が乱発されていくものである。演算のための情報が揃えば、それは自身の感性という計算式に当て嵌めて結論が導き出される。それは自分の社会戦略として獲得した個性であり、一般的には"美学"と呼ばれるソレであり、個人的には支配と調和を特徴とする感性である。
 それは美学演算によって弾き出されるものであり、論理や打算によって求める事はないのだ。それは対象を求めず、振る舞いを求めるから産まれる演算方式。

 だからワタシに私の答えを求められても困ってしまう。「何がしたい?」と問われれば「あなたがそこなら、ワタシはここかもね」とか、「昨日それが起きたのなら、今日はこれを起こすべきね」とか、必ずセカイ側の条件に対するアンサーとしての答えしか持ち合わせていないのだ。あなたが数ミリ動けば、私の答えも変わるのだ。そんな高密度な複雑性の中で、ただ一つの結論などないのだ。故にそれは過程と曖昧性の中に現れ、そこに美を求めるのが私である。

 ある意味、演算によって答えを出したい、というそのものが私の欲求であるとも言えるし、私の欲求よりも美学を優先したいとも言える。
 何故?と聞かれれば、「この場で答える事の正解」を答えるかもしれないし「だってそれが綺麗だから」と答えるかもしれない。
 夕焼けが美しい理由など答えようがない。オレンジの光が海に反射して美しいと言っても、なんでオレンジの光が海に反射すると美しいの?となって、だって反射するとキラキラ光って見えるじゃない?それが美しいの。となって、キラキラ光るとなんで云々無限に続く。
 結果的に、それが美しいのだから。になる。私は、そんな振る舞い方しかわからない。

おわり。

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