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いまの日本で「学問」ってある?

ここ数日、「聖書」の世界にはまっていましたので、
気分転換に、宗教全般のお話をいたしましょう。

 仏教のお話をいたしましたとき、
「日本の仏教には戒律がない」ということに触れましたが。
日本の仏教者が、必ずしもそのような
一律的な「地平」に立っていたわけではありません。
あらゆる宗派の「開祖」である高僧や、
市井の中で「聖」とよばれた名もなき僧や、
歴史に現れない名僧も数々いらっしゃったわけです。

 それは、むろん現代においても同じようなことが言えます。
教科書に出てくる高僧ではなく、人にはあまり知られてないけれど、
「この人すごい」という人が、
日本の仏教僧の中に多々存在しています。

 そもそも歴史や系譜はどうあれ、哲学とか宗教というものは、
長い歴史の中で、様々な賢者によって磨かれ、洗練されてきたものです。

ですが、究極の目的は何かというと、
「自分はなにゆえここにあるのか」
という命題に他ならないのではないでしょうか。
そして、それはそれぞれの時代背景によって、
「人によって何がよい生き方なのか」
をずっと説いてきた心のありかたの連続になるのです。

過去の思想に学ぶことは、いまを知る早道だと言えます。

故事成語でいえば「温故知新」
=古きをたずね、新しくを知る。です。

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 過去に学ぶことで、実は「未来に必要なこと」が見えてくるので。
これはある意味「学びの妙」といえるでしょう。
あたしが座右にしているのは、
「過去に学ベば、未来が見える、」なのです。
これはヘロドトス以来の「歴史学」の あり方であろうと思います。

また、逆説的な言い方をすれば、
「現在の姿が過去を作る」という考え方です。
歴史学もそうですが、
「宗教学」は「宗教」そのものを客観的にとらえる事で、
「幸福の追求」を人々がどのようにめざしてきたのかを
考えるスタンスだと考えています。

とにかく、人は、
「どうすれば心安らかに一生を全うできるか」
「自分はどうしてここに存在しているんだろうか。」

 そういう究極な課題を持って生きています。
それに気づかず無為に過ごす人もいます。
ですが、自分は世界ではないし、
自分の思うとおりの状況なんてあり得ません。
人間は、万能ではなく、無力だからです。
もちろんあたしとて、すべてを伝える力もありませんし、
自分すら救済できない。

だから、過去に学ぶしかないと、そう思うのです。
そのために「学問」がある。

いまの教育機関、大学も然りです。
「学問」がどっかに行ってるんじゃないですかね

なんだか、どこも「予備校」みたいになってる印象。

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