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宗教が生まれる心理的なメカニズム

さて、前回は投影化のお話をいたしました

 ここでは自らのパーソナリティを確立させる心の動きをお話ししましたが、ひとつ課題が生まれたことに気づいたと思います。

 すなわち、自分の外にあるものから、自分の投影した自我を防衛するには、作り出したパーソナリティを閉じ込め、外界と遮断する事が第一段階であるわけです。

 ところがここでひとつの不安がさらに広がります。それは遮断したはいいけれど、自分の根底にある超自我スーパーエゴに対する不安です。わかりやすくいうと「価値観」とでも言いましょうか、そんな概念です。

 そうなると、どこかにおなじ価値観を持った存在はないかと探るようになり、似たものを見つけたとき、自我の安全を実感し、超自我に対する不安が和らぐことになります。いわゆる「共感」という心の動きです。

 さらに進むとそれをたくさんの人と「共有」することで、さらに自我の安全を求めるようになります。

 しかしそれにも限界はあります。すなわち人が考える価値観は、すべて異なるからです。それを共有化するには、すべての人に共有できる「超自我」の存在が必要となります。
 その存在は、人智を越えるものである必要があります。

 人間の力ではどうしようもないことって、確実にありますよね。
たとえばいわゆる生老病死の四苦は、仏教の「真理ダルマ」であるとされ、人智では抗うことはできないものだ。とも言っています。

 ですから、人々はこの状況を「神」とか創造主という対象概念を共有して、それらに「祈る」ことを行いました。すなわち自らが解決不可能な事象に対し、自我が決定することや理解できない課題を、神という客体に委ねることを選ぶことで、自らの不安を払拭しようとしたわけです。

 超自我を神という客体に委ねることで、行動軌範エスとの融合を試みたわけです。
 いわゆる、これが「宗教」というものの母体となるわけですね。

   この心の働きがあるから、いわゆる新興宗教と呼ばれる団体が成立できるのだとも言えるでしょう。
 ですからこれらに入信する動機は「不安」であり、それを除去できる客体が、教組の教えであり、その教団の教義に従う事で、超自我スーパーエゴ行動軌範エスが融合されて「信仰による幸福感」を得るのだということです。

しかし、それも「共有化」が進むほど、その世界は閉じ、結果対立や異端排除が行われるので、どんどん普遍性を失っていくことになるのです。
 ですから、超自我そのものは、共有化はそもそもできないのだ。という考えに至る動きも生まれます。つまりは超自我の「自我」ヘの回帰です。

 「神は死んだ」というニーチェの言葉は、このことを端的に示していると言っていいでしょう。

  そうなれば、個人の「存在の価値」の在り方が問題となります。つまり、神に頼らない「共存」の在り方についてです。人は神に頼らない「超自我」をにに求めたのか。そこから「大安心」な世界が追求されるのです。

そこから近代哲学というものが生まれ、市民革命によって、あらたな「安心」の基準が作られたわけです。


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