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さて、観音経では、このように記述しています

汝観音行。善応諸方所
汝よく聴け。観音の行はすべての方向場所に行き渡る
弘誓深如海。歴劫不思議
・広い誓願は海の如く深く、永久に不可思議だ
侍多千億仏。発大清浄願
・何千億の仏に侍え、偉大な清浄願を発した
我為汝略説。聞名及見身
・観音菩薩の名を己の身に聞き、姿を見
心念不空過。能滅諸有苦 
・心に念ずるなら、苦しみを滅することができるのだ。

観音経

さて、この文面で考えるのであれば、「観音」という存在は、「どのような場面においても、観音の誓願は行き渡っているのだ。だから、心に観音を念じることが肝要である。」

 という風に解釈できます。まずは、「仏陀の智惠」を着けている観音は、あらゆるところに存在する。という前提条件がここで出されています。

 すなわち、そのどこにでもいる「観音」は、あなたがその姿を見たり聞いたりし、その観音の智惠を念ずれば、苦を滅することができるよ。
 という風にも解釈できます。

 そして、有り難いことに観音菩薩は、おのが姿を、それぞれ発心した人に合わせた「姿」で現れるというのです。これを「応身変化」といいまして、言ってみれば仏陀の「対機説法」にも通ずるかもしれません。最終的には三十三もの変化があるとされています。

 すなわち、ぶっちゃけ
観音菩薩は人それぞれ違った形で現れるって事ですよ。 それが、おのが状況に応じて「変化した」姿で現れる。というシステムっていうことです。

その変化カテゴリーをもっと単純化すると、六種類の変化があります。
ざっと挙げると、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音の六変化があり、それぞれ「六道」の救済にあたるとされています。

 さて、この六道ですが、生ける者がいる世界とは6つの様相を表している。という考えです。

   望みが絶たれた世界=地獄界。我欲に溺れた世界=餓鬼界。ただ何も考えず貪るだけの世界=畜生界。意味もなく競い諍いに明け暮れる世界=修羅界。何でもない日常の世界=人間界。何もかも快適、かつ自由な心豊かでいる世界=天上界。

 そして、これらすべての世界に、応身変化して観音は存在する。というのが観音信仰の基本スタンスであるわけです。

 そうなると、「六道」とはなんなのだ。という話になってきます。すなわち、観音が救うべき世界とはいったいどこにあるのだ?という問になります。
 
 一般的に、六道は死後の行き先と民間信仰では信じられています。ですから観音は死後の世界の「救い」という存在になりましょう。

 さて、そこでの概念が問題になります。すなわち、六道を自らの心の相対的な状態である。と考えるか、それぞれが、生まれ変わる絶対的な世界である。と、捉えるかの違いになります。.

そして、この後者を捉えると、「般若波羅密多」を会得するのは、他ならぬ自分であるよ。という論法になるのです。

 そしてこの世の一切の現象は、己の心がなすものであるから、結果、一切の苦厄をコントロールできる=すなわち悟る。と解釈できます。ですから、玄奘が「観自在」と意訳した狙いがあるのではないか。そう考えるのですな。

そう考えると、「般若経群」の言わんとすることが、なんとなく見えてくるような気もするのです


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