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無料塾が人をつくる|第2章-4|皐月秀起

阪神・淡路大震災とボランティア

4回生になり、就職活動を始めました。今でもその傾向は残っていますが、特に「体育会信仰」が根強く、サッカー部の二つ上の先輩あたりまでは、あっという間に大手企業に決まっていました。しかし、ちょうど私の一つ上の学年から、いわゆる「就職氷河期」に突入し、急に就職が難しくなりました。ご多分に漏れず時間はかかりましたが、「いずれは海外で働ける可能性があり、比較的身近な業界」ということで住友林業株式会社に決めました。

サッカーのほうですが、4回生になってすぐ1回生にレギュラーポジションを奪われ、控えのまま秋に引退しました。年が明け、あとは卒業を控えるのみとなった1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生しました。

震度7の大地震で、犠牲者は6000人を超える大災害でした。1月17日当日、私は、関西はおろか日本にもおらず、地震を経験していません。実は、父と海外旅行に行っており、カナダのホテルの部屋にあるテレビから流れてきたNHKニュースで知りました。海外配信向けのニュース内容はかなり断片的で、最初は被害の大きさや程度などがよく分かりませんでした。ですが、1時間ごとに死傷者の数が増えていき、気持ちは焦るばかり。スマホはおろか携帯電話すらない時代です。ホテルからコレクトコール(通話料金を受信者が負担するもの)をかけ、自宅には何とか繋がりました。あとから知りましたが、いわゆる国内の一般回線はほぼ麻痺していたので、海外からのコレクトコールだったからうまく繋がったようです。

家族の無事は確認できたので、次はどうやって帰国するか?を考えました。予定通りだと4日後の帰国だったのですが、とてもそれまで待っていられないので、現地のエージェントさんに事情を説明したところ、「明日(翌日)は無理だけど、明後日(2日後)なら何とか取れそう」ということで、フライト変更をしてもらいました。

次に降りる空港ですが、もし関西国際空港(以下、関空)に降りても電車が動いていないなら宝塚まで帰れないので、いっそのこと名古屋に降りてバイクでも購入して帰ろうか?とかいろいろシミュレーションをしましたが、どうやら関空から大阪までは普通に帰れそうなので、関空に降りることにしました。今のようにネットもないので、通信手段も情報も限定的な時代でした。

結局、地震が起きてから3日後の夜に自宅に戻りました。母、妹2人に祖母が1人。それは心細かったと思います。

地震後、私の住んでいる地域は、水道が7日後、ガスが10日後に復旧しました。ライフラインが戻ると、私たちの生活も少しずつ元通りになっていきました。しかし、それはエリアによりけりで、例えば私の通っていた関学大は校舎のあちこちが痛み、さらにひどかったのが大学周辺の木造アパートの下宿で、ほぼ全滅でした。学生が15人、教職員の方も8人亡くなりました。大学の学期末試験は中止になり、3月の卒業式だけはかろうじてできました。

私自身は揺れも経験せず、怪我や精神的ダメージもなかったので、何か役に立てることがないかと、1月中旬に大学キャンパス内のボランティアセンターに行きました。がれきの片付けなど力仕事をやるつもりでしたが、担当の方が「サッカーを教えてほしいという子どもがいる避難所があるんですけど」と言われました。

もちろん断る理由もなく、一番得意な分野でもあるので、お引き受けしました。数日後に、指定された避難所になっているある幼稚園に出向きました。そこには全国から集まったボランティアの人たちがすでに活動をしており、私も一緒に食事などの手伝いをしながら、その合間に大学に依頼をしてきた小学生と一緒にサッカーして遊んでいました。これが私の最初のボランティア活動でした。その後、半月ほどたった頃、その小学生家族が避難所から仮設住宅に移ると当時に、私のボランティアは終わりました。

社会人生活がスタート

1995年4月1日に、住友林業株式会社に入社しました。入社式で新入社員代表として挨拶をすることになり、「私は学生時代キーパーとしてゴールを守ってきました。これからは住友林業の守護神になれるよう頑張ります。」と言ったところ、なかなかウケがよく、社内で「入社式の守護神」と廊下で声をかけられるなど、顔と名前を憶えてもらいました。

キーパーは、ポジションが一つしかなく、たとえミスをしても自分で取り返すことができません。擦り傷は絶えないし、砂まみれになるので洗濯機は壊れるし、キーパーグローブなど出費もかさみます。あまり割のいいポジションではなかったですが、キーパーだけは「正」キーパーとか、「守護神」とか、形容する言葉がつきます。「正フォワード」とは言わないですから。そういうところは、キーパーを中学生のときに選んでよかったなと思いました。

住友林業では、主に住宅用に使われる木材・建材の商社部門を歩み、大阪営業部(淀屋橋)に6年いました。

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