1. 大いなる幻影① 九州の北端に位置するかつての炭鉱町のI市にいて、どうにも、先行きが見えず、奥深い森にいて北も南も見当がつかないような気に陥った時、そんな新しい世紀のある特別の日に山田は、1980年に観た映画を思い出していた。1980年という年の前後には、日本映画に多くの新人監督が現れ活況を呈したが、とりわけ1980年に大手映画会社から配給された漫画を原作とする1本は、公開前のなんの前評判もない時から、目をつけていた1本であったが、最初の長いワンショットを観た瞬間に自
3.転がる石のように④ 「タナカに内容証明を送れ」 ある時、”カントク”は電話口で山田にそう言った。内容証明とは、いつ、誰が、誰に、どのような手紙を送ったか郵便局が証明するものだ。公的に証明している、ということだけで、なんてことないものだが、内容証明が送られてきたとなると、相手はビクリとくる。いつでも法的措置に出ますよ、という脅しのようなものなのだ。裁判などになった時に証拠として効力を持ちますよ、ということなのだろうが、内容証明つきでないと証拠にならないのかどうか疑わ
3.転がる石のように③ 九州の北に位置するここI市は、昭和のはじめには炭坑町として栄え、高度成長へ導く日本の原動力であった。全国から仕事を求めて人々が集まって来た。町は膨張し、荒くれものが多かった。石炭が石油に変わり、一気に収縮したが、その当時の気質は変わらない。 “カントク”は、よくこの土地を知らない人に紹介する時に言う話がある。生活保護者の比率が全国1位だというのだ。揚げもの鍋に油をたっぷりと入れ、ガスでガンガンたきあける。やがて、キンキンに熱せられた油に火がうつる
3.転がる石のように② 数か月後、“カントク”がシロイを放り出せと言い放った和室はフローリングになっていた。正確にはフローリングカーペットというものだ。 ほとんど廃墟と化したようなこの町は、7年前に高校生が売春をする映画を作っていた頃より人口も減りが激しく商店街も縮小され開いてる店舗も極端に減ってきてるように思えた。その荒廃ぶりは、あるいは映画と似ている。そのどちらにも足を踏み入れている自分に山田は目眩すら覚えた。 町の荒廃ぶりを逆手に、ここを映画の都にしようという“
3.転がる石のように① 1987年に、ワンショットの監督が巨大なセットを建てた多摩川沿いの撮影所の同じステージに、今度は、すでに巨匠扱いだったお笑い芸人の映画監督がセットを組んでいた。1996年のことだ。ワンショットの監督と比べると、そのセットの小さいこと。アパートの一室を組んだものだが、これならどこのアパートを借りて撮影しても変わらないだろうと思われた。ロケ地は外であろうと室内であろうと実際の場所で撮ることを好んだお笑い芸人は、セットの撮影で、どこを引場にするかも事前の
2.天国と地獄④ 映画「眠れる美女」は連休を挟んで都内単館で公開された。1日に5回上映した。立見は初日の1回目舞台挨拶の時だけで、それが終わると潮が引くように客は減り空席が目立った。5週間の最終日を待たずして結果は見えていた。劇場からは最低補償を約束させられていた。観客動員が多くても少なくても劇場には、週アベレージ300万、5週で1500万を保証しなければならない。満たなければ、その分上乗せしなければならない。 映画「眠れる美女」の興行成績は、窓口が一般1800円で1
2.天国と地獄③ 以前、この「眠れる美女」を制作しようとした時は、アカマツがプロデューサーで、ビーグル犬と蓄音機が目印の音響設備の老舗が出資を決めていたが頓挫した。すでに、アカマツは東京にはいない。その後、自身のプロダクションもふるわず、たたんでしまった。“カントク”と同郷である福岡県の北に位置するI市に、家族もろとも引き込むことをアカマツは決意した。山田は、アカマツの多摩川沿いの公団住宅の自宅を引き払う時に手伝いに行ったが、“カントク”は会うこともなかった。しかし、どう
2.天国と地獄② “カントク”が取り組もうというのは、中断していた「眠れる美女」である。引き続き著名な脚本家が執筆。打ち合わせは“カントク”とコガさんも加わり、新たなる1稿が仕上がるまでに数か月要したという。山田は、コガさんから出来立ての入稿前のコピー原稿を受け取った。 コロンビアのノーベル賞作家も晩年、そこから着想して作品を執筆したという川端の「眠れる美女」は、極めて偏執的な小説である。老境の男性機能をすでに失われていると思われる男が処女と添い寝をする話だが、コロン
2.天国と地獄① 1950年代から60年代にかけて、そのピークを迎え、その後興行的にも下り坂を一気に駆け降りてきた日本映画界は、山田がいた頃は、底辺であったが、それでも、時折撮影所にセットを建てて約1ヶ月かけて撮影を行う現場もあった。どちらかというとステージのレンタル料金が安価だと言われていた多摩川沿いの撮影所はまだ活気はあったが、練馬区の撮影所は閑散としていたものであった。多摩川沿いや練馬区の撮影所もかつてはステージ以外でも広大な土地を有し、そこに時代劇の長屋や街並みの
脚本作り 山田の映画の見方は細部だ。全体の話は1年もたてば忘れている。細部といっても作品のテーマに関わる細部ではない。全く細部だ。作品のテーマに関わる細部ではないが、登場人物のキャラクターに関わる細部といえなくもないが、人に話したところ、そうだった? と言われかねない細部だ。例えば、駐車している車に乗っているスティーブ•マックイーンが背後の追手をうかがうために車内のバックミラーの位置を指先でちょんちょんと叩いて直す、というような細部。 「ジュリア」という映画がある。作家
1.大いなる幻影⑧ “カントク”の思考は、縦横無尽だ。 「アメリカでヘリコプターの免許を取る」 つい1週間ほど前に、映画の製作中断を決めたかと思うと、突如ヘリコプターだ。なんでもヘリコプターの免許はアメリカで取ると日本の3分の1程度の料金で済むという。といっても車の運転免許を取る金額では済まない。オレゴン州に免許を取得できる教習施設があり、取得中は寝泊まりと食事のできる施設もあるということだ。しかし、なんでヘリコプターなんだ、と山田は思う。 「取りたかったんだ、前か
1.大いなる幻影⑦ “カントク”が川端康成の「眠れる美女」を映画にしよう、と思い立って数年以上経つ。「眠れる美女」は、睡眠薬で眠らされている処女と、すでに男性機能を失ってしまったであろう老人が添寝だけをするという話。これは海外で翻訳され、きわめて日本的なエロティシズムと評価されている。格調高いエロティシズムが“カントク”の目指す映画。「眠れる美女」の映画化は監督になる前からのボンヤリ想像していた。しかし、この小説は短編な上、老人の心情を扱った抽象的な作品だ。そのままでは映
1.大いなる幻影⑥ 1980年に世に映画を生んだある二人の監督。山田はその一方の監督に憧れながら、もう一方の監督の引力に引き込まれてしまたった。そして、在学中から卒業して1年にも満たない間に、“カントク”自身の請負の監督作品と、“カントク”がプロデュースを行い、供する食事の割り箸一本まで、厳格に掌握して無用な支出を抑えて、またその売り上げに貢献するであろう要素なら、あきらかに内容的に不要なシーンも追加撮影も辞さない商業主義作品についた山田は、“カントク”が、次にかねてから
1.大いなる幻影⑤ “カントク”は、その頃、代々木上原に四畳半一間の仕事場を借りていた。シナリオを書くために借りたというその一室は、4畳半に小さな炊事場とトイレがついたものだった。そのマンションの1階部分は風呂屋になっていたため、2階のその仕事場は冬でも暖かかった。山田の映画学校の校長でもあり、その頃すでに巨匠と呼ばれる東の重鎮の映画監督がかつて風呂屋の2階に事務所を持っていたという。それを聞いていた“カントク”は、この立地条件をいたく気に入ってここを借りたのだと言う。“
1.大いなる幻影④ “カントク”は、その年の夏に、1本の映画を請け負いで監督をした。“カントク”は、それまで2本映画を作っていたが、1本目は、レイトショー上映の後、大手映画会社が上映権を買い取り、全国公開され、2本目は、その大手映画会社と提携で自らの制作プロダクションで作ったエロテックな文学作品を原作にしたもの。請負いで監督だけに専念した作品はなかったが、ここへ来て、その依頼がきたのだ。 山田は、見習いの助監督として、“カントク”にひっぱられたが、その多摩川沿いにある撮
1967年、ファンによりロンドンの地下鉄の壁に「神」とまで殴り書きされ、その演奏力を評して崇められたギターリスト、エリック・クラプトンは、純粋主義者ゆえヤードバーズやクリームといったグループでの活動に嫌気がさしてきたある日、ひょっこりと友人であるジョージ・ ハリソンがやって来る。ビートルズのギターリストである彼は愛車のフエラーリの助手席にクラプトンを座らせると、ちょっとつき合ってほしいとロンドンの中心街へと車を走らせる。 英国のレコード会社EMIのアビィロードスタジオに