意味を求めてしまうことの意味

本日も昼頃起きる

英語の勉強をして、眠くなったので少し昼寝をし、そのあとカフェで読書をしていた

ついにカフェの店員にも顔を覚えられてしまい、今日は何食べます?などと気軽に聞かれる

カフェの店員に顔を覚えられるのは、なんとなく気恥ずかしい。というか嫌だ

匿名的な空間だからこそリラックスできるのに、関係を作ってくるなと

何者とも特定されたくない
一切のコミュニケーションを排することもまた休息なのでね

今読んでいるのはノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』

90年台後半に書かれた本だが、とてつもなく面白い

現代社会で、生きる意味や人生の意味を求めてしまうのは何故か?それがどういう意味を持っているのか?ということを解説した内容

まだ半分くらいだが、夢中になっている

ボルツいわく、何者にでもなれる現代社会で意味を求めてしまうというのは、自由な選択肢に対する尻込みや恐れ、ということらしい

フロイトからすれば、それはもう病気だとさ

人間は過剰な自由には耐えられない、そして耐えられなくなった時に意味を求め出すという

間違っていないと思う

だが、だからといってそう簡単に意味を手放せないのも人間でしょう?とも思いながら読んでいる

安定した生活と、愛する人間と、コミュニティと、逸脱しない程度の冒険

それがあればいいと分かっても

そこからはみ出したくなるのが人間であり文学だと思っていて

それを不確定性に対する慰めだ、と言われたとしても

不確定性に突撃してやるぜ、という気持ちを持って生きていたい(何を言っているか自分でもよくわからなくなってきたが)

というより自分の場合は、うるせぇ自分で全部確かめるわ!と思ってんだろうな(にもかかわらず本は読む)

安定した仕事とコミュニティと多少の冒険があれば悩みは減りますよ、と言われたとして、それが正しいと頭で分かっていても

なんとなく面白くない

自分であれやこれややりながら発見したい

自分の中の暴力性があるとすればこの、他人がなんと言おうが自分でやってみて確かめたいという欲求だろう

わりと誰にでもある欲求だとも思う

自分自身の輪郭を探っている

何か良いものと出会えたらよい

理性のブレーキが効かなくなる体験を望んでいるとして

これは他力本願か?

全体性への希求なのか?

俺はポムポムプリンになりたい

意味にも無意味にも抵抗したい

没頭と観察を行ったり来たりしたい(これはボルツも推奨しているくさい雰囲気もあるが)

永遠のわからず屋だ

熱量くらいは売れるかもしれない

情熱的に生きるということは何を意味しているだろうね(また意味を問いだす笑)

今日はもう寝よう

みなさんもよい夢を

おやすみ

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