「ショートショート」やくそく地蔵
小さなお地蔵さんがくれた、ささやかな奇跡……。
文字数:約2530文字 読書時間目安:5分
あっ!
七海はちょっとした段差に躓きよろけた。
体勢を立て直そうと慌てながら手を振ったので、肩からかけていたバックが落ちてしまう。
「ああ~! やっちゃったぁ……」
ため息をつく。やれやれと思いながらバッグを拾った。確認してみるが、幸いなことに汚れたり傷ついたりはしていない。
転ばなかったのは、運が良いってことですよね、やくそく地蔵さん?
軽く会釈する七海。
閑静な住宅街の片隅にある、ささやかな林。その入り口付近に地蔵は設置されていた。
彼女はその前に立つと、まわりを見て誰もいないのを確認してから、改めて深々と頭を下げる。
私、医大に合格しました。ありがとうございます。
地蔵は黙って微笑んでいた。そう、いつもの笑顔、それが嬉しい。
自宅はここから歩いてすぐだ。今頃、母は夕食の準備中だろう。合格祝いをしてくれるらしい。
お父さん……。
地蔵とその後ろに続く林を見ながら、七海は父を思い出していた。
子供の頃この地域で育ったという父には、よく昔の話を聞かせてもらった。その中で一番印象に残っているのが「やくそく地蔵」のことだ。
「このお地蔵さんの前で約束したことは、必ず果たされるんだよ」
「果たされる?」
「途中で約束が守れなくなるようなことを、なくしてくれるんだ。例えばスポーツとか習い事で一番になると約束したら、ケガをしたり病気になったりしてやめなきゃならないようなことがなくなるらしい。もちろん本人が努力をしなければ一番にはなれないけどね。その、努力ができなくなることを防いでくれる、っていうのかな?」
「ふうん……」
「何でも自分の努力次第。だから、絶対にこうなりたいという目標があるなら、ここでお地蔵さんに聞いてもらって、なりますって約束するんだよ。宣言に近いかもしれないね」
そんな話を聞いたのは、まだ七海が5歳の頃だった。父と2人で買い物に出かけた帰りで、今と同じように夕暮れ時だったことを覚えている。
昔からの伝説といえば聞こえはいいが、その頃からすでに、知る人も減っていたらしい。今は、約束をしに来る者はほとんどいない。
あの時、父は優しそうな、そして少し寂しそうな顔をしながら、七海に言った。
「七海は何を約束する?」
う~んと唸りながら考え出したのは、小学生になるまでにピーマンを食べられるようになる、ということだった。
地蔵のおかげかどうかわからないが、それは果たされた。おそらく、母のつくるピーマン肉詰めが美味しかったからだろうとは思うが……。
「お父さんは?」
逆に訊いた七海に対して、父は目を伏せしばらく考えていた。そして何かを振り払うかのように顔を上げて応えた。
「これからも七海のことを見守る。そして、人生で大切な節目の時は、必ずお祝いしたり励ましたりするよ」
当時の七海には意味はよくわからなかったが、強い気持ちのようなものが伝わってきた。
父はそれから3年後に亡くなった。
病気だが、余命1年と言われてから2年以上の時が流れていたという。つまり、あの約束を交わしたとき、父は自分の命が長くないことを知っていたのだ。
本当に、見守ってくれている?
夜空を見上げた。木々の合間で月が光っている。問いかけてみても応えは返ってこない。
もう一度、やくそく地蔵に目を戻した。
七海は、父が亡くなってから、目標が定まるとこの地蔵と約束を交わすことにしてきた。医大へのストレート合格も約束していた。今度は、次の約束だ。
しっかり勉強します。そして、お父さんを奪った病気を治療できるようになります。頑張ります。
手を合わせ、深々と頭を下げると、七海は家へと急いだ。
「ただいま」
玄関を開け、元気に声を張りあげた。
「お帰り。そして、おめでとうっ!」
母がキッチンから顔を出し、嬉しそうに言った。七海以上に大きな声だ。
これは、父の葬儀などが終わり一段落し、2人してたくさん泣いた後に決めたことだった。
挨拶だけでも、元気にしよう。お父さんは、元気な私たちが好きだったから――。
そう言って8歳の七海をしっかりと抱きしめた母は、それから涙を見せたことはない。
もう10年の時が流れたんだ、としみじみ感じた。
テーブルには御馳走が並んでいる。その中にピーマン肉詰めがあり、なんだか可笑しくなった。
「なに笑ってるの?」
「え? う、うん、美味しそうだなぁ、って思ってさ」
「そうでしょ」と胸を張る母。「もういつでも食べられるからね。早く着替えてきなさい」
「はーい」と応えジャケットに手をやったところで、ふと違和感を覚えた。
ポケットが軽い……。
スマホがない。おかしいな、どこかに忘れてきたのかな?
慌てて思い出す。確か、最寄りの駅を出た時にはあったはずだ。ラインを確認した覚えがある。
だとすると帰り道で?
あっ!
思わず息を呑んだ。
やくそく地蔵の前で躓いて……それで落としてしまったのだろう。
「ごめん、お母さん。すぐ戻るから」
バッグをテーブルに置きっ放しにして、玄関へ走る七海。
その後ろ姿を、母がキョトンとした表情で見ていた。
ついさっき来ばかりだが、夜の闇が更に深くなっているような気がした。
月の位置が少し変わり、やくそく地蔵を照らしている。
ええと、このへんだったけど……?
地面をキョロキョロとしながら探すが、見当たらない。
おかしいなぁ。まさか、誰かに拾われて……。
不安が強くなったその時、突然音楽が鳴った。
これは?!
七海のスマホの着信音だ。
え? どこ?
音がする方に視線を向けた。やくそく地蔵がいつもの顔でこちらを見ている。
あっ!
やくそく地蔵の足下に、まるでお供えでもするかのようにスマホが置かれていた。
どうしてこんな所に……?
不思議に思ったが、とりあえず電話に出なければ、とスマホを手にする。モニターを見ると、相手の名前もナンバーも表示されていない。
誰だろう?
なぜか、出ないという選択肢は思い浮かばなかった。受信をタップする。
「はい」
「七海……」
この声はっ!
「お父、さ、ん……?」
そう、父の声だった。
「七海、おめでとう。よく頑張ったな」
父と交わしたあの日の約束が蘇る……。
「おとう……さん……」
七海は胸がいっぱいになった。涙が溢れてくる。
「……ありがとう」
父と娘の久しぶりの会話。それを、やくそく地蔵はいつもの優しげな表情で見守っていた。
Fin
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