見出し画像

元作詞家の見解「これからの生き方」

自分という個性の発信

イントロ

 先日某所カフェ、隣のテーブルに二人大学生くらいの男性がいました。聞こえて来る会話によれば共にバンド活動中、各々が作曲と作詞を担当する間柄のようです。新譜制作について熱く語り合っておりました。
 お二人にとっては、イントロは全くないか極力短いことが大前提のようです。以前にも聞いたことがありますが、これは昨今のスマホによるリスニング事情から、曲の本編を待ち切れない若い方々が直ぐ次の曲に浮気してしまうからという理由だそうですね。「なるほど、それを言ってるんだな」と納得しました。
 勿論、以前にもそのタイプの楽曲はありましたが、こと私にとってイントロは、とても印象に残るある意味独立した作品でした。「ドレミファ•ドン」世代のせいでもあるのでしょうか…? このイントロと言えば…と、寧ろそれ自体が楽曲のシンボルと言える作品も数多くありました。時代なんですね、でもとても腑に落ちる理屈です。

楽しみ•満足有き

 イントロのある無しについてではなくお伝えしたいのは? 作り手側の意識についてです。先に挙げたのはその一例ですが、無論クリエイターにとって、受けての感覚や好みを尊重した物作りの姿勢は必要ですが、本来大切な制作を楽しむという観点からすると、或いは音楽を楽しみたい目的でそれを始めたならば、作者が先ずは自分を満たす我儘さを持って良いのだと思います。
 言いたいこと→形→表現→伝播→結果
で進むとすれば、先ずは大元に「誰が何と言おうが、自分はコレをするのが気持ちイイ」といった自己満足/肯定感があるべきです。
プロになるとそう言った部分での字練磨が生まれます。諸々のリクエスト、マーケティング、トレンド…縛りが否応にも増えるのです。私はかなりここに苦しみました。しかし基本大切なのは、〝これが自分の表現である〟という覚悟ではないでしょうか。ましてや彼等は(恐らく)未だアマチュア、もっと個性を楽しめば良いと思います。たとえプロでも、私はもっと我儘でも良かったと今感じています。予め設定された枠の中に自らを放り込むのは勿体ない。以前にも書いた、投手がボールを置きにゆくことを始めれば、本来の個性と良さは失われます。そこから私は駄目になりました。

時代で言うならば…

これは今後の時代に必要とされる生き方にも繋がります。集団から個性へ、勝手気ままを肯定するつもりはありませんが、もっと個性を楽しみ、その各々が融合された先に大きなイノベーションが生まれます。良い意味で「自分とはこういう人間です。これが駄目なら勘弁して下さい」的な度量が寧ろ必要になって来ると思います。働き方の自由化やら実際社会にもその兆候は見られませんか? もっと楽しみ自由に何事にも取り組むべきです。
イントロからかなり話が大袈裟になりましたが、結構強く感じることなのでつい書きました。外に合わせて生きるより、どうせなら自ら新しい流れを発信したいものです。尺の9割がイントロの曲、あっても面白いと思いますよ、あのお二人へお伝えします♡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?