見出し画像

なぜ「カスの嘘をつくお姉さん」にジェラシーを感じてしまうのか?

音声作品「ダウナー系のお姉さんに毎日カスの嘘を流し込まれる音声」(DLsite販売リンク)のトラック2「アルバイト」についての解説である。
厳密な考証は行っていないため、いち購入者の感想だと思って楽しんでください。

トラック2「アルバイト」でお姉さんに悋気りんきを抱くのはなぜか?

登場人物の整理

この音声作品には3人の主要人物が登場する。

図1 登場人物一覧

「私/聞き手」――音声作品を購入し各種端末から聴いている現実世界の人間

「君」――音声作品の世界にいる、「お姉さん」に嘘を流し込まれる人物

「お姉さん」――音声作品の世界で「君」に嘘を流し込む人物

今、我々の生きている世界を「現実世界」、音声作品の中の世界を「創作世界」と呼ぶことにする。
「私/聞き手」は現実世界にいるため、音声作品である創作世界へは干渉することができない。そして創作世界には「君」と「お姉さん」の存在しか知ることができない。

「私/聞き手」が創作世界を見る構造

「私/聞き手」はどのようにして現実世界から音声作品の世界つまり創作世界を見ているのだろうか?

図2 現実世界、音声作品、創作世界の関係図

図2に示すように「私/聞き手」は窓から外の景色を見るように、音声作品という媒体を介して「君」と「お姉さん」のいる世界を見ている。
この音声作品では「君」が語り手(サイト下部にて解説)であり、「君」の「目」からしか創作世界を見ることができない。 
このとき「私/聞き手」にとってベンチとブランコのある夕暮れ時の公園が世界のすべてであり、それより外のことを知ることはできない。想像の余地はあれど、「私/聞き手」から能動的な行動は起こせないため一方通行の情報が供給される。ここで「私/聞き手」は「ベンチとブランコの公園」に囚われたような感覚を抱く。(これはマイナスのイメージではなく、「君」と「お姉さん」だけの世界であるとも言える)
そして、この構造こそが次に説明する創作世界での「君」と「お姉さん」が持つ構造にリンクしているのだ。

「君」が公園の外の世界を見る構造

トラック2「アルバイト」ではお姉さんがこれまでに経験してきたアルバイトについて会話が続く。ここでお姉さんから初めて「ベンチとブランコの公園」以外の世界について言及される。

図3 狭い世界と広い世界の構造

図3に示すように「君」は「お姉さん」の語りを媒介として「お姉さん」と「アルバイトの経験」の世界を見ている。
「君」は「お姉さん」の話を通じて公園のベンチ以外の世界を知ることができる、と同時に広い世界に存在する「お姉さん」も知ることになる。つまり創作世界の中ではお姉さんが語り手であり「お姉さん」の「目」からしか広い世界を見ることができない。 
これは図2で「君」を通じて「私/聞き手」が創作世界を見ていたのと同一の構造になっている。
手の届かない「広い世界のお姉さん」と手の届かない「創作世界の公園のベンチ」を前にして、「君」と「私/聞き手」が聞き手として一致する。
そうすることでカタルシスが生まれるのだ。

このような構造で「私/聞き手」と創作世界、「君」と「広い世界のお姉さん」に同一の断絶を生み出し、手に入らないこと/手が届かないことへのジェラシーを感じさせる。
また完全に断絶された世界を跨ぎ見る「私/聞き手」に対して、創作世界における地続きの「お姉さん」を見ている「君」にも嫉妬心を抱くのだ。そうしてノスタル爺のように「アクションを起こせ」と心の中で叫ぶのである。

まとめ

「現実世界と創作世界」の関係と「狭い世界(公園のベンチ)と広い世界(アルバイトの経験)」の関係が類似的なものとなる。
「私/聞き手」→「音声作品(媒介)」→「君(語り手)」→「公園のベンチ」
「君」→「お姉さんの語り(媒介)」→「お姉さん(語り手)」→「広い世界」
この構造の一致が現実の我々にジェラシーを感じさせる要因となる。

語り手についての解説

「君」が語り手であるとはどういうことか解説しておく。
創作の世界には「語り手」という役割をもつキャラクターがいる。小説の世界では地の文と呼ばれるセリフ以外の文を語るようなキャラクターだ。もし登場人物以外の視点で地の文が書かれているなら、語り手は作者となる。
また映画などでは語り手が誰であるかをカメラで判断する。例えば、ホラー映画などで廊下の遠くから主人公を映し出すシーンなどは、カメラはキラーの目線を代替しているといえる。つまりこのシーンにおいての語り手はキラーである。
また語り手は作中で入れ替わることもある。
読者、受け手側である現実世界の私たちは基本的に語り手の視点からしか物語の世界を見ることができない。そのため語り手が嘘をついていたりした場合は嘘の世界を本当の世界として認識してしまう。詳しく知りたい方は信頼しえぬ語り手などで検索してください。

そうして「私/聞き手」である私たちは「君」の「目」から(厳密には耳で聞いた音から)しか創作世界を知ることができない。これが「君」が語り手であるということの説明である。(実際に語っているのはお姉さんであるが)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?