未オペトランス女性の霊は女性トイレに化けて出るか

好きなお笑いの話や漫画の話を沢山したいのだが、ちょっと腹が立ちそうなのでひとつ書きたいと思う。私ほどの神経質ともなると、自分がキレそうな予感も察知できるのだ。

SNSにある批判に殆どオリジナリティというものはなく、大きな流れに沿った細かな大喜利があるだけだ。受け取り手も様々な感性を持ち合わせているので、タイミングや言い方、例えが違えば、同じ意味でも腑に落ちることがある。それ自体は多様であり、気づきのチャンスを持ち、どちらかというと良いことだと思う。何か問題であるかというと、とにかくうるせえことだ。ま〜たこの話題かよ、もう既出なんだよ、そんな気持ちになる訳だ。そんな気持ちになるまでTwitterに張り付いている私が悪いというのは認めるとして、余りにも杜撰な論理だったり、品の悪い主張についてはいい加減にしろと言いたくなる。

「ゴールデンカムイは女・子供に被害がない優れた作品なのに、◯◯ときたら」

この形のツイート、クソほどうるさかった。
私は2018年からゴールデンカムイを本誌で読んでいたが、連載時から今に至るまでにうんざりするほど見てきた。少年漫画等が主に女性にフレンドリーでない、搾取ととれる描写をした際に上記のツイートが見られる。この主張は、最初に目にしたときはう〜んと思い、次になんとなく不快になり、今はブチギレリプライを送るほどに嫌いだ。

理由は一つだけである。「俺たちのゴールデンカムイをヘイトスピーチに利用するな」だ。別に、ゴールデンカムイでフェミニズムを語るなとは言わない。実際に、作中でヤングジャンプという青年誌において女体の露出を描かなかったことや傷つくのが主に覚悟を決めた男たちであり少年少女を守る形になったことは事実である。作者の野田サトル先生がフェミニズムを意図してないとしても、ゴールデンカムイをフェミニズムにおいて"良い例"として扱うのは別に悪いことではない。作品が、作者に意図せずとも読者にいい影響を与えることはあるし、それを禁止することは誰にもできまい。ある描写がいかにフェミニズム的に良いことかと評価するのは、作品の本筋のストーリー以外も味わおうという視点の一つだ。歴史的検証や、心理学的な考察と同列の"評論"にすぎない。

ただ、"利用する"のには我慢がならねえのだ。自分が気に入らないものを貶めるために名前を出して主張の正当性を上げる。そんなのは、自分の批評を相手に認めさせる努力を怠っているだけだ。お前が楽をするために俺たちのゴールデンカムイを使うな。先述した通り、どんな解釈をするのも自由だが、作品は、貴方の虚栄心のためにあるものでは決してない。

実際、「ゴールデンカムイは女・子供に被害がない優れた作品なのに、◯◯ときたら」のツイートには「ゴールデンカムイにも男体搾取はあるし差別描写もあるんだが」と作品の不完全性を揶揄される。いい加減にしてくれ。まず、作品があらゆる切り口から完全である訳がなく、その作品、不完全ですけど〜?みたいな揶揄はくだらない言葉遊びでしかない。しかし、そのヘイトは作品名を出さなければゴールデンカムイには向けられなかった物だ。表現を怠けたあなたの代わりに、作品が貶められたのだ。私は厄介な作品ファンとして、この理不尽に怒りつづける。

強い固有名詞を出したら人は黙る、そんなカードゲーム的思想はもうやめよう。それならば、故人の名前を出した方の主張が無条件で通るというのか?その人の人生や、属性は、あなたの言論を通すための道具では決してない。ごく一部を観衆に見せてくれただけで、誰にも奪えない、本人だけのものだ。その人や作品を自分の"身代わりにして"、自分の主張を通すのは失礼で姑息な弱さであると知ってほしい。私は好きでもなんでもない人間の冥福を祈るアピールはできないが、公然と人間の尊厳を踏み荒らすような畜生には堕ちたくない。生きている限りは人間でいよう。

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